ザ・ナンバーワン・バンド『もも』を聴く

小林克也氏といえば、僕らの世代には『ベストヒットUSA』のDJとして記憶されている人だと思いますが、その小林氏が80年代、ザ・ナンバーワン・バンドというバンド(というかコミックバンド)を結成し、そのデビュー曲は「うわさのカム・トゥ・ハワイ」というハワイ移民についての歌でした。というわけで、今回はそのお話。


もも

もも


「きんさい きんさい ハワイにきんさい わしらは みんな ヒロシマじゃけん」
こんな調子で広島弁で歌われる歌詞に、まず爆笑です。でも、こんな陽気さのなかにも、ハワイ移民の一世の生活史がわかりやすく凝縮されていて、感心しました。一番がハワイ移住と現地での仕事と友人たち、二番が同じく仕事と当時の移民がタバコ代わりにマウイワウイ(ハワイ産のマリファナ)を吸ったというエピソード、そして三番が真珠湾攻撃時の移民たちの境遇です。これらのことを絶妙な歌詞にし、ラップとファンクを融合させたような陽気でノリの良い曲(この曲は日本語で歌われた初めてのラップとも言われているそうです)に乗せて歌う小林氏の才能に驚きました。


小林氏は1941年広島生まれとのこと、たぶん身のまわりにハワイ移民の話はごく当たり前のようにごろごろあったのでしょう。なにしろ広島は、熊本や山口、沖縄と並んで日本有数の移民送り出し県です。(ちなみに歌詞に一箇所、「きんさい きんさい ハワイにきんさい わしらは みんな クマモトじゃけん」という箇所もあります。熊本弁ならば、「わしらは みんな クマモトだけん」となるところですが、まぁそれはともかく。) こんなかたちで歴史が伝わるというのも、現代においては一つのあり方だろうし、これだけ楽しく絶妙に歴史を伝える曲なんて貴重です。


でもこの陽気さは、やはりハワイ移民だからこそのものではあるかもしれません。これがたとえばドミニカ移民だったら、ここまで陽気な歌にはできないでしょう。そう考えると、この曲の陽気さそれ自体のなかにも、ハワイ移民の歴史がいくぶんか反映していると言えるかもしれません。


もう一つ感心させられたのは、小林氏の歌の才能です。いくつもの声色を使い分けて歌っていて、「うわさのカム・トゥ・ハワイ」だけでも、まったく違う二種類の声を使っています。それに何と言っても三曲目の「DIANA」。これはポール・アンカの往年の名曲をフランス語に訳し、それを氏が歌っているのですが、その歌い方がゲンズブールそっくりで、ポール・アンカゲンズブールの両方を知っている人ならば、これまた爆笑間違いなしです。ポール・アンカのあの甘ったるい声とともに記憶していたこの曲が、あのゲンズブールの低くボソボソつぶやくような声で歌われると、原曲のうっとうしいくらいにさわやかなイメージがガラガラと崩れ落ちていきます。


また、最後の曲「My Peggy Sue」は、ルイ・アームストロングそっくりで驚かされます。たぶん氏には物まねの才能もあるのでしょうね。


しかし、小林氏の経歴そのものについて多少なりとも知ると(そんなに知らないですけど)、この人の経歴そのものが、戦後日本におけるアメリカ文化の受容の一証人というふうにも見えます。小林氏は1941年生まれですが、この世代は一番熱心にアメリカ文化を受容した世代ではないでしょうか。戦後日本の復興はアメリカとともにあり、戦後日本人の豊かな生活への憧れはアメリカへの憧れに他なりませんでした。社会学でも、パーソンズマートンらのアメリカ機能主義を一番熱心に受容したのもこの世代です。


そういうアメリカへの強い憧れをもった世代をポピュラー文化の領域で象徴する人物の一人が、小林克也氏ではないでしょうか。氏の歌における物まねの巧みさも、この憧れの強さの副産物のように思われます。その氏がつくった、アメリカ音楽への愛着あふれる、しかしコミカルな曲の数々は、アメリカ文化にまっすぐに憧れてひたすらそれを受容し、模倣して同一化しようとしたけれどもやはり完全な同一化は不可能だった、という現実を、笑いとともに受け止める態度のようにも見えます。コミカルさは、ここで、アメリカ文化にまっすぐに憧れ、そこへの完全な同一化を夢見た戦後日本のある世代の経験を自己相対化するような働きをしています。『もも』のもつ批評性は、そこに由来しています。


そういえば、今年の6月、エルヴィス・プレスリーの邸宅で、ブッシュ夫妻を前にしてプレスリーの物まねをした小泉首相も1942年生まれ、まさにこの世代の人です。あの物まねが恥ずかしいのは、一国の首相の行為としてあまりに軽々しいから、というよりも、戦後日本人の抱いたアメリカへのまっすぐな憧れが、現代という時代に及んでもなお、なんの自己相対化もなく曝された瞬間だったからでしょう。


しかも、プレスリーの物まねをして晴れやかな笑顔を見せた同じ人が、二ヵ月後には靖国神社で重々しい表情を見せました。この二重の表情、二重の振る舞いこそは、アメリカとの関係で戦後日本が抱えるジレンマを示す究極のイメージのようにも思われます。