郊外暴動の傍らで:F・ゲンヌ『明日はきっとうまくいく』

Yumat2007-02-01

ファイーザ・ゲンヌはアルジェリア系移民のフランス人女性で、2004年に19歳のときに『明日はきっとうまくいく』を書いて作家としてデビューしました。パリ郊外のセーヌ・サン・ドニ県の低家賃住宅団地で生まれ育ったというから、郊外暴動の震源地からそう遠くない環境で生まれ育ったことになります。


『明日はきっとうまくいく』は15歳の女性ドリアの日常生活が彼女自身の視点で書かれた小説です。舞台は「パラダイス団地」と呼ばれる郊外の団地ですが、この団地の光景は郊外暴動から伝わる憎しみと暴力とが充満する場所というイメージとはほど遠く、そこで暮らす人々の日常生活もどこにでもあるような光景です。


明日はきっとうまくいく

明日はきっとうまくいく


もちろん、貧しくてきれいな服を買うお金がなく、市の運営する古着や不用品の提供所に行ったり、母親が字が読めなくて安定した仕事をなかなか得られなかったり、近所の若者がドラッグを売りさばいたり、などといった郊外に暮らす人々の現実はここにも現れる。けれども、たとえばフランスの郊外の移民について何も知らない人がこの小説を、思春期の女の子の成長過程の一コマを描いた小説として読むこともできるはずです。あまりに状況が違いすぎて感情移入ができないというようなことはたぶんないでしょう。


この小説のなかで、主人公ドリアはいろんな人にムカついたり、腹を立てている。母親の職場の上司や学校の教師、ソーシャルワーカーなど、彼女(と母親)を不当に評価する(と感じさせる)人たちにたいして、つねに苛立っている。「きっとブルロー女史の言うとおりだ。わたしって、他人に評価をくだされるのをひどくイヤがるくせに、いつも他人を批判している」。ちなみにブルロー女史とは彼女のセラピストです。


なかでも一番のムカつきの対象となっているのはソーシャルワーカーで、彼女の態度からにじみ出る“貧しい人や困った人を助けてあげている”という優越感、あるいは助けてあげている人を見下すかのような傲慢さが彼女をムカつかせ、いったんムカつきの対象となったらマニキュアや小奇麗な外見までも、自分たちの貧しさへの当てこすりのように感じられて、ますますムカつく。まさに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」です。


このソーシャルワーカーへのムカつきは、郊外の憎しみを理解する一つの手がかりを与えてくれます。一見すると、ソーシャルワーカーや教師、職場の上司がムカつきの対象となっているのは、結局のところ彼らがドリアとその母(ひいては移民全体)にたいして「善い市民になりなさい」という一方的な要求をし、その要求に応えられない彼女たちに「ダメ人間」のレッテルを一方的に貼って不当に低く評価するからであるように見えます。しかしこのメッセージは、じっさいにはもう少し複雑なかたちで受け取られます。


この場合の「善き市民」とは、フランス語をしゃべり、世の中の法律を守り…といった意味だけではなく、“人並みの生活”をしているという意味でもあります。じっさいドリアにとっては、学校で悪い成績をとって先生から失望されることよりも、古着提供所でもらった変な服を着て学校で周囲の人間からバカにされることのほうが屈辱的なことだし、「現代のテレビこそが、コーランの代わり」という彼女にとって、テレビの中の世界への憧れは強い。そんなドリアにとって、マニキュアを塗り、小奇麗な格好をしているソーシャルワーカーは欲望のモデルであると同時に、その欲望を充足することの不可能性を意識させるうっとうしい存在でもある。つまりソーシャルワーカーの発するメッセージは「善い市民になりなさい」で終わるのではなく、その後に「(でもあなたたちには無理でしょうけど)」という部分が付け加えられて受け取られるわけです。このようなメッセージを受け取るドリアのソーシャルワーカーのムカつきには嫉妬が含まれている。このソーシャルワーカーが結婚するという話を思い出した後、そんな自分たちと関係ないことを話す彼女に苛立った後、ドリアはこんなふうに思い直す。


「でも、そうね、結局、そう、そうなのよ。嫉妬してるんだ。小さい頃、バービー人形の髪を切っちゃったのは、バービーちゃんがきれいなブロンドの髪をしてるのがうらやましかったからで、胸を切りおとしちゃったのは、わたしに胸がなかったから。おまけにその人形は、本物のバービーちゃんなんかじゃなかった。母さんが<ギガストア>で買ってくれた貧乏人向けの人形だった。安物の粗悪品。二日も遊んだら、戦争にでも行ったみたいに手足がもげちゃった。その名前がまたムカつくの。だって、フランソワーズよ。そんな名前が、女の子に夢を与えるわけないでしょう!?フランソワーズ、それは夢を見ることを忘れた女の子たちの人形だった。」


善き市民であること、それはバービー人形を欲し、そして所有し、そして自らもバービー人形みたいになるよう努力すること。この水準に照らして、ドリアの欲望は二重に疎外されている。一つにはバービー人形のようになるための手段や資源がないという点で、二つにはそもそもバービー人形を所有できないという点で。そしてマニキュアを塗り、小奇麗な格好をしているソーシャルワーカーこそは、ドリアの前に欲望の純粋な体現者として現われるのであり、だからこそもっとも激しいムカつきの対象となる。


このことは逆の面からも言えます。この小説のなかに現れる移民ではないフランス人のなかで、唯一ムカつきの対象となっていないのはセラピストのブルロー女史です。かならずしもドリアとブルロー女史とは互いに完全に打ち解けているわけでもないけれども、ズレながらも何となく波長が合い、ブルロー女史のセラピーはドリアの精神的な立ち直りに貢献しています。ではなぜ彼女はムカつきの対象とならないのか?それは身も蓋もない話ですが、彼女が「ご高齢のおばあさんで、顔がブサイクで、いつも<パラプー>というシラミ駆除用のシャンプーのヘンなにおいがする。イヤな人じゃないんだけど、でも、『この人、大丈夫?』ってときどきほんとに心配になる」ような人だからです。言い換えれば、彼女がドリアの欲望のモデル=ライヴァルとはなりえない人だからです。記号を消費することによって他者より相対的に優位に立つという消費社会の競争からほぼ完全に外れているがゆえに、ブルロー女史はドリアにたいしてアンビヴァレントな感情をいだかせることがない。


郊外の荒廃の背景として高失業率からくる貧困が語られるのが常ですが、それはその日の食べ物にも事欠くような絶対的貧困ではなく、社会における平均的な欲望を充足できないという相対的貧困です。郊外の移民たちもテレビや映画と日常的に接しており、消費社会の欲望は十分にかき立てられながら、他方でそれを実現する手段や資源がない。この一種の不能状態が、郊外の恒常的な苛立ちを育む要因の一つと言えるかもしれません。だから、貧しい移民たちを助けるため、といって行政が古着を提供したりしても、それはおそらく効果を生まないか場合によっては反対の効果を生むことにもなりかねません。なぜなら、その古着を着るということ自体が、消費社会の欲望の主体たりえないことの烙印を押されるに等しいことだから。


とはいえ、じつはこの小説で重要なのは、こういった恒常的なムカつきが、けっして暴力へとつながらないことです。つねに何かにムカついていたドリアも、母親が行政の提供するフランス語教室に通って簡単な読み書きできるようになり、職業も斡旋してもらえて表情が明るくなり、彼女自身も恋人ができたあたりから、精神的に立ち直ってゆく。あと必要なことは?「あとはもう、女性雑誌《エル》の定期購読に申し込めば、カンペキな女性ってかんじ」。善き市民であるとは、欲望の主体であること。さらにドリアは将来の政界進出を夢見るなど、その欲望は果てるところがない。


「わたしは、パラダイス団地で立ち上がろう。…でもぜったい、映画《憎しみ》に出てくるみたいな荒々しい暴動なんてしたくないし、あんなふうな納得いかない終わりはイヤだ。そうじゃなくて、もっと気のきいた、ぜんぜん乱暴じゃない方法を見つけて、立ち上がるんだ。わたしたちのことを認めてもらうために。」


尽きることのない欲望は、充足不可能性に直面してフラストレーションが高まると、フラストレーションを生む元凶である欲望の対象そのものを破壊するところまで行き着きうる。ちょうどドリアがバービー人形の髪を切り、胸を切りおとしたように。しかし、信頼できる人たちとのつながりのなかで、ドリアの尽きることのない欲望は、最終的に社会変革を目指す希望につながってゆきます。


移民問題について語ることには、ある種の難しさがあります。たとえ移民たちの窮状を理解し、彼らの側に立って議論をしようとしても、移民の存在を問題ととらえる視点それ自体が、結果的に「移民=問題」という認識の固定化を、ひいてはステレオタイプ化を招くことになりかねないからです。こうした意図せざる偏見の再生産を避けるために、「移民」と「問題」を切り離すこともありえます。たとえば2005年の暴動は「移民暴動」ではなく「郊外暴動」という言い方がなされます。たしかに暴動に参加した若者の多くは、移民系の人々(おもに移民二世や三世)ですが、彼らは暴動を「移民」としてではなく、「郊外の若者」として起こしたのだ、というようにカテゴリーをシフトさせることによって、ステレオタイプ化をある程度避けることはできます。しかし、これが行きすぎてアメリカの多文化主義における政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)運動のようになって「移民」カテゴリーの適用を一義的に禁止するといったようになると、逆の固定化が生じます。


大切なのは、「移民=問題」というステレオタイプを禁止することよりも、そのステレオタイプがいかに実際とかけ離れているかを知ることです。たしかに郊外は失業率が高く、貧困や差別が不満を募らせ、憎しみや暴力の温床となっているという現実があることは否めません。しかし、高いといっても100%ではないし、移民の中にも希望を持って生活し、社会的成功を掴む人もいます。たぶん将来のドリアは、そんな女性の一人になるだろうと予感させます。郊外のすべてを2005年の郊外暴動や『憎しみ』のようなイメージで理解することはできません。郊外の楽ではない生活のなかで、それでも欲望を希望につなげてゆこうとする人もいるということ、しかもとりたてて卓越したヒーロー・ヒロインとしてではなく、等身大の人間としているということを、この小説は示してくれます。