M・カソヴィッツ『憎しみ』:郊外暴動論part.4

Yumat2007-01-17

ここ数回、連続して郊外暴動について論じてきましたが、やはりこの問題を語るうえで、この映画を避けて通ることはできません。1995年に発表されたマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』は、2005年10月の出来事を予見した作品として、暴動時にはしばしば言及されました。


この作品、以前にこのブログでも書いた京都の百万遍角にあったビデオ屋(あれは「百万石」という名前の店でした)で、大学院生の頃に借りて見て以来、久しぶりに見ることができました。アマゾンでなかなか手に入らなかったんですが、カソビッツの初期三作品(『アササン』『カフェ・オ・レ』と『憎しみ』)をセットにしたDVDボックスがあるのを知り、さっそく入手しました。


憎しみ [DVD]

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あらためて見て、この映画が予見的と言われるのがけっして誇張ではないことを実感しました。アラブ系の若者が警官から暴行を受け、病院に運び込まれたことがきっかけとなり、日頃警官に不満を募らせていた若者たちが暴動を起こすという設定は、警官に追われた少年二人の死をきっかけに暴動が起こった2005年の出来事と、驚くほど似ています。冒頭の暴動の場面では車が燃える場面もあります。ただしこの映画は、この暴動が鎮圧された“後”の、若者たち三人の一日を描いたものです。暴動にも参加した三人の悪ガキ仲間、ユダヤ系のヴィンス、アラブ系のサイード、アフリカ系のユベールたちの、暴動の翌日の、おおよそ20時間のあいだの出来事がドキュメンタリー・タッチで綴られていきます。


希望を抱けない団地の毎日から抜け出したいと思いながらも、そこから抜け出す術もなく、恒常的にフラストレーションを感じている。そんな中で暴動が起こり、その熱気がまだ冷めやらぬ翌日、彼らは街をぶらつく。病院・警察・アジア系店主の小売店・画廊といった、“通常の市民”が社会生活を営む場所では必ずといってよいほどトラブルを起こし、彼らが仲間とともにくつろげる居場所となるのは団地の屋上や片隅、地下といった周縁的な場所しかありません。


前回まで論じてきた郊外暴動論のなかで、暴動が郊外の若者たちの一種の自己破壊であった可能性について述べましたが、この映画でも、その理解を裏付けるような光景がいくつか出てきます。たとえばヴィンスの妹の学校が燃やされ、彼女は学校に行けなくなったこと。また、ユベールの所有するボクシングジムも放火で燃やされたのですが、この犯人をユベールは「ヴィンスの昔の仲間」と推測しています。彼らの共通の知り合いが仕事のために500万フランで買った車もまた、燃やされ、ダメにされました。要するに、彼らの破壊行動の対象は、かならずしも自分たちを差別し、排除するホスト社会の側にのみ向けられるのではなく、自分たちの仲間にも向けられています。


この映画のタイトルは『憎しみ』です。しかし、憎しみが明確な対象に向けられる攻撃性であるのにたいし、フラストレーションが明確な対象を必ずしももたない状況での攻撃性だとするならば、彼らの根底を流れるのは憎しみというよりもむしろフラストレーションというべきもののように感じられます。彼らの攻撃性はかならずしもつねに特定の対象と結びついていません。彼らの最大の憎しみの対象となるのはもちろん警察であり、そしてネオナチです。しかし、それらへの憎しみが根底にあって彼らを動かしているというよりも、現状にたいするやり場のない苛立ちがあって、そのはけ口が警察やネオナチに向けられているというほうが近いように見えます。だから明確な対象と結びつかないこのフラストレーションは、いつなん時、どんな対象と結びついて暴発するか分からず、だからこそ仲間のジムや車に向けられることさえある。そして、この流動的なフラストレーションを抱えた人間が拳銃を持ったとき、それはふとした偶然から暴発し、最終的に死をもたらすことになる。皮肉なことに、それは自らの死であったのです。


郊外の団地の退屈な日常に絶望し、しかしそこから抜け出す術もなく恒常的にフラストレーションを抱え、見るもの触るもの全てに当り散らし、ドラッグでつかの間退屈を紛らわす他ない若者たち。この流動的で拡散的なフラストレーションは、ふとしたきっかけから対象が見出されるや否や、瞬時に憎しみへと凝縮され、暴発する。しかし本当にフラストレーションを募らせるのは、ドラッグも暴動も、つかの間の気晴らししかもたらさないという厳然たる現実です。集合的な熱狂のなかで暴れまくり、フラストレーションをぶつけまくった暴動の翌日には、いつもと同じ退屈な毎日がやってくる。このフラストレーションのはけ口を求めて断続的に警察と衝突し、市民とトラブルを起こしてみても、結局その後にはまたフラストレーションがやってくる。繰り返されるたび毎に、“また同じことの繰り返し”という意識がしだいに積み重なっていく分、フラストレーションはいっそう募る。こうしてフラストレーションを解消しようとして、逆にそれは無限に亢進してゆくという悪循環が繰り返される。この悪循環を断ち切るのは、ただ、偶発的に訪れる自らの死しかない。こうしてフラストレーションは、どのような憎しみの対象(への攻撃)によっても解消されることができず、最終的に自己破壊へと向かう他ない。この映画は、まさに偶然の死によってこの悪循環が唐突に断ち切られるまでを描いた映画ということができます。



ところで、この映画が公開された1995年当時、ヴィンス役のヴァンサン・カッセルは29歳、ユベール役のユベール・クンデは25歳、サイード役のサイード・タグマウイは22歳。映画のなかで主人公たちの年齢ははっきりとは明示されていませんが、おそらく20歳前後といったところでしょう。実年齢と役の年齢とが近いのはサイードだけで、ヴァンサン・カッセルなんてもう30歳手前なのに、本当にこういう“悪ガキ”いそうだなぁと思わせる名演技でした。ユベール・クンデは同じくカソヴィッツ監督の『カフェ・オ・レ』ではアフリカの外交官の息子にしてエリート大学生という、『憎しみ』での悪ガキ役とあまりに違う役を、これまた好演しています。


P.S.
今日(18日)、知り合いのフランス人に上で書いたようなことを話しところ、`la haine`というのは若者自身もけっこう使う言葉のようで、たとえば「超ムカつく」というようなかんじで`J'ai trop la haine`というフレーズが使われたりするそうです。若者たちの生活のなかで、彼ら自身によってよく使われ、彼らの感覚をよりストレートに表す言葉としては、「フラストレーション」よりも「憎しみ」のほうがやはり良いのかもしれません。