郊外暴動論part.3

Yumat2006-12-26

前回のブログにたいし、あらためてaroundhereさんからコメントをもらいました。コメント欄にリプライしようとしたら、また長くなったので、またこちらに書きます。


コメントを全部引用するとずいぶん長くなるので詳細については前回のブログを参照してもらうとして、aroundhereさんの趣旨は前回のブログで述べた移民内部の亀裂の構図が原発施設誘致をめぐる地域社会の亀裂のそれと似ているという指摘でした。



この指摘を読んで最初に思い浮かんだのが、沖縄の基地問題でした。原発も基地も、めぼしい産業がない地域に窮余の策として施設が建設・維持される結果、地元住民の意見が割れるという点では共通しています。それにたいして前回のべた移民の話がそれらと少し違うかなと思うのは、前二者の場合は産業の不在という窮状のなかで外部から持ちこまれた施設が地元に亀裂を生むのにたいし、後者の場合の亀裂は移民集団内部から来ているものである点です。どちらも大きく見れば、集団内の亀裂が顕在化しやすい脆弱な社会状況が背後にあるという点でつうじるものがあるとは思うのですが、その亀裂が生じる直接的なきっかけがその集団の内部から来たのか、それとも外部から来たのか、という点で違いがあるように思います。


よく移民問題の話では、世代間葛藤について論じられます。一世はともかくも自らの意志で移住を選択したのにたいし、二世は選択の余地なく移住先で生まれ、出身地の文化を強くもつ親と移住先の文化とのあいだでアイデンティティが揺らぎやすい。イスラムがフランスで再活性化した理由の一つもこのような世代間葛藤を克服するためでした。つまりフランスのイスラムは、“文明の衝突”などという国際政治的な次元の問題である以前に、移民の家族とコミュニティに、家族やコミュニティとしてまとまるために必要な価値や規範を提供するものとしてあったわけです。ところが郊外暴動が示したのは、移民の親(あるいは大人)世代が、子世代にたいして対処しきれていない現実です。暴動のさいには在仏イスラム団体、イスラム組織連合(UOIF)が暴力を戒めるファトワ(宗教見解)を発表したこともありましたが、イスラム団体でさえ、完全に移民の若者たちをコントロールできているわけではありません。


陣野俊史の『フランス暴動』に、こういうエピソードが載っていました。郊外暴動のときにはラップの影響が議論されました。暴動が起きて一ヵ月後に、フランスの代表的なラップ・グループ、NTMのジョイ・スター――彼自身、マルチニク系移民の二世――が、暴動が最初に起こったクリシー・ス・ボアに出向き、若者たちに投票人名簿に登録して政治参加するよう呼びかけました。移民の若者たちには政治を自分たちとはまったく関係のないものとして最初から関心を持たない人も少なくなかったので、まずはそこから変えよう、不満があるなら投票をつうじて変えさせようとしたわけです。


フランス暴動----移民法とラップ・フランセ

フランス暴動----移民法とラップ・フランセ

Paris Sous Les Bombes

Paris Sous Les Bombes


80年代以降、ラップは郊外の若者たちの不満を代弁する音楽として彼らに支持され、その暴力的な歌詞がしばしば問題にされることもありました。NTMの「何を待っている」という曲には、「火がつくまで何を待っている?」という歌詞があり、これなどが郊外暴動へのラップの影響が議論される “証拠”として使われたのです(この曲は上記のアルバムのなかに収録)。そんなふうに若者たちから支持されているラップ・ミュージシャンが行って政治参加を呼びかければ状況が変わるだろうと思いきや、彼が若者たちから受けた言葉は「お前の口にスプーンを突っ込んでいるのは、俺たちなんだぜ。お前の聴衆は、俺たちさ」。


うーむさすがフランス、罵り言葉もパンチが利いてます。「お前を食わせてやってる」と言わずに「お前の口にスプーンを突っ込んでいる」などということによって、いっそう相手を小馬鹿にした感じが伝わります。素人がこんなひねりのある罵り言葉を言えるような土壌を背景としてこそ、フランスのラップも出てきているのでしょう。


と、話が逸れましたが、要するにジョイ・スターは、しょせん人気取りのために来たのではないか、と見なされたのです。ラップ・ミュージシャンの意見さえも若者たちは聞く耳を持たなかったのです。もちろんこれは一種の興奮状態にあったがゆえの一時的な反応だった可能性もありますが、若者世代にたいする大人世代の無力さの現れと見ることもできるでしょう。だから移民問題の場合は、原発や基地のように外部から導入されたものが集団内部に亀裂を生んだというよりも、集団内部それ自体に亀裂の要因(世代間葛藤)があったと思うのです。


もちろん世代間葛藤といい、言うことを聞かない子供に困る親といい、ありふれた話と言えば言えます。でも、ともすると移民問題を語るとき、「移民」というのを一括りにして語りがちだからこそ、当然移民のなかにも多様性があって単純な一枚岩ではないということを知ること、じっさいどのように多様なのかを具体的に知ることは、重要なことだと思うのです。