郊外暴動論part.2

Yumat2006-12-21

前回このブログで書いた郊外暴動論にたいして、aroundhereさんから面白いコメントをもらいました。最初はコメント欄でリプライしようと思ったのですが、小さい欄に書くのが煩わしくなったので(それにしても何でコメント欄はあんなに小さいのでしょうか→はてなの管理者さん)、こちらに書きます。


――以下、aroundhereさんのコメントの引用――

『この手の暴動に対する理解に乏しいのですが、このフランスの暴動は、暴動をおこしていた人にとって「親和的な階級、文化、組織」にもっぱら向けられていたのでしょうか。そしてそのことをもって、「無意味」「無力」とはたしてcharacterizeでき切れるものだろうか、と感じます。

たとえば、一昔前によくニュースになった釜ケ崎の暴動がイメージとして近いかと思ったのですが、でも釜ヶ崎の場合は警察(とくに交番かな?)なんかが対象になっていたと思います。で、その警察は労働者にとって、味方だったのか敵だったのか、それとも「とにかく暴動の対象となりうる、少なくともどっしりとはした存在」だったのか。要するに、何らかの苛立ちがあって僕ら(でダメなら僕)が暴動に向かうとするとき、論理的に明確な対象があればそこに向かうだろうが、ひょっとしてそんなクリアーカットな対象なんて、だいたいの場合は存在しないんじゃないかと思ったわけです。「敵」性を一身にまとった存在が単一で at handにあることのほうが少ないのかなあ、と思ったりするわけです。そんなとき、車やムスクを無秩序に破壊する文脈って、どんなもんでしょうか。「もう、ほんまにどうでもええねん」とか言いながらやってしまうような破壊なのでしょうか。意外と、それらの対象を選択する志向性って、少なくともそれなりの「意味」をまとった存在を選んでいるという点で理解可能のように思うわけです。「ほんまに彼らはわけわからん…」とまでは感じない僕がいるように思います。つまり、なんらかの「意味」を破壊しよう、くらいには思っているように感じるし、そこのところは大きく広げていえば「ホスト文化」の出先と言えなくもない存在への異議申し立てのように思ったりもするのです。

まとまりがなくてすみません。一言でいえば、釜ヶ崎の人たちやフランスのイスラム徒も、きっとなじみの一杯飲み屋や公園のブランコまでもすすんで破壊したりはしなかっただろう、ということです。ジジェクがことさら「無意味」「無力」と喧伝してるとしたら、なにかウラがあるように感じたりするのですが。』

――以上、引用おわり――


いやaroundhereさんも、たぶんこれだけ長文のコメントを書きこむのに苦労したことでしょう(笑)。ありがとうございます。


前回のエッセイは暴動の「原因」に焦点を当てたものでしたが、aroundhereさんのコメントは、暴動の「対象」に注目する重要性に気づかせてくれました。


たしかに暴動のような“非合理的行動”のなかに、ある種の「合理性」あるいは「志向性」が見られることはあります。92年のロス暴動で韓国人の店がしばしばターゲットにされたこと、01年のニューヨーク・テロで世界貿易センタービルという象徴的な建物が破壊されたことなどを、その例として挙げることができるでしょう。ロスではそれまで黒人がやっていたような小売店を韓国人がやるようになり、黒人と韓国人との利害の衝突が潜在的な緊張関係をもたらしていたと言われますし、テロで世界貿易センターがターゲットとされたことの意味は言わずもがなです。攻撃の対象が明確であるほうが攻撃性を表出しやすいので、攻撃行動の非合理性と攻撃対象選定の合理性とは両立しうると言えるのかもしれません。だから暴動やテロは、その非合理性にもかかわらず、対象の選定において一定の「志向性」が働くことがあり、そのような場合にはかならずしも理解不可能ではないですよね。


ではフランス暴動の場合はどうだったのか。燃やされた車が誰の車だったのか、正確にはわからないので、この点に関して具体的な数字等に即しては残念ながら言えません。おそらくは火をつけていた若者たちも、自分たちに馴染みのあるエリアではあまりそのようなことをしなかったのではないか、とは思うのですが、移民が別の移民の車を燃やしたーそれが故意か偶然かは別としてーことがありえないことでもない、だから郊外暴動が移民による一種の自己破壊だったというジジェクの見解があながち間違いとも言い切れないと思うのは、今日では移民による犯罪の被害者が移民であるといった事態も生じているからです。たとえば移民排斥を訴える国民戦線という政党がありますが、今日では、この国民戦線に投票する移民がいることが指摘されています。この点はまだはっきりとした調査等に基づいて明らかにされたわけではないので一部にはこれを否定する向きもありますが、しかし幾つかの手がかりからすると、まったくの事実無根というわけでもないようです。


それにしても、なぜ移民排斥を訴える国民戦線という政党に、移民が投票するのでしょうか?1996年4月17日号のフランスの週刊誌『レクスプレス』に、国民戦線の市長を持つトゥーロンの状況をレポートする記事があり、そのなかで紹介されているある消費者組合の代表の声が、この問いを理解する手がかりを与えてくれます。


「ここ(=トゥーロン)では、モロッコアルジェリア出身の家族の父親で、国民戦線に投票した人もいます。なぜなら、彼らの家のドアが壊されたり、子供が悪いことをしても、誰も何も言わないからです。彼らにとってファシズムなんてなんでもないのです。彼らは治安の悪さにうんざりしているだけなのです。それは私には理解できることです。」


犯罪の被害は移民自身にも及んでおり、彼ら自身もまた治安の悪化に悩まされている状況が、彼らをして国民戦線の支持に向かわせた、ということのようです。もう一つの理由として、次のようなことも挙げることができると思います。ここでは引用しませんが、ルモンドのインターネット掲示板「forum」には、2002年の大統領選挙のときに、国民戦線党首のルペンに投票したマグレブ系移民の書きこみがあります。それを読むと、彼が投票した背景に、一部の移民の犯罪行為が移民全体にスティグマ化につながる現状と、それにたいする既成政党の無力にたいする猛烈な苛立ちがあることが伝わってきます。移民全体の統合が困難な状況のなかで、自分たちのようなまじめに働く移民が「治安悪化の元凶としての移民」といったレッテルから逃れるためには、「良い移民」と「悪い移民」とをはっきりと区別し、後者を追放すべきである、にもかかわらず既成政党はこの問題に及び腰でなんら有効な対策が打てない、だから自分は国民戦線を支持するのだ、ということでした。(これらの点については、以下の論文で論じたことがあるので、機会があれば読んでみてください。松浦雄介「フランス国民戦線の台頭と社会システムの変容」『文学部論叢』2005、第85号)


こうした状況をふまえると、移民自身が車を燃やされる被害に遭うということも、なくはないと思うわけです。これがじっさいにあったのかなかったのか、あったとして、それはまったくランダムな破壊活動の結果だったのか、それとも移民のなかである種の階層分化が進み、緊張状態があったがゆえなのか――この暴動については、まだまだ調べてみる必要のあることが多いようです。