ジジェクの郊外暴動論

Yumat2006-12-02

ジジェクの新刊書『人権と国家』のなかに、昨年11月にフランスで起きた「郊外暴動」についてのエッセイが含まれています。といっても、必ずしも郊外暴動だけに焦点を当てて論じたものではなく、いつものように話を脱線させまくっているのですが、久しぶりのジジェク節だったので、面白く読みました。


  

郊外暴動を分析するさいにキィワードとされるのがラカンの「行為への移行」です。「行為への移行」は「アクティング・アウト」(行動化、行為化)とともに精神分析の用語で、どちらも一種の病理的行動にかんする概念ですが、精神分析用語を使わず簡単かつ乱暴に言えば、後者には理解可能な動機があって、にもかかわらずそれは当人によっては理解されず、そのために行動として現れるものであるのにたいし、前者ではそういった動機さえも宙吊りにされ、理解を拒むようなものです。動機なき殺人や自殺がその典型例となります。


ジジェクは郊外暴動について、暴動の当事者たちは建設的なヴィジョンをもった抗議活動や抵抗運動ではなく、無意味な破壊行動であったと見なしています。車や建物に火をつけるというかたちで現れた暴力は、当事者たちが政治的主体を組織して社会変革を目指しているのではなく、むしろ彼らの無力の裏返しである。そしてまた、燃やされた車は裕福な地域のものではなく、当事者たちが属する階層が苦労して獲得したものであったのだし、その他に燃やされた学校や社会福祉事務所、モスクはむしろ彼らを支援する機関であったはずなのだから、この暴力は、当事者たち自身に向けられていたものだった。このような暴力の自己破壊的性格ゆえに、ジジェクは郊外暴動を「行為への移行」と見なしているわけです。


さらにジジェクは、このような無定形な暴力が生じやすい社会状況を説明するため、ベックやギデンズの言うリスク社会論にも言及しています。リスク社会論によれば、近代社会とは基本的に社会のあらゆる領域に<反省性/再帰性>が浸透する時代であり、その傾向は現代においてますます顕著であるとされます。そこでは物事の確固たる基盤をなす「伝統」や「自然」はなく、すべては反省的/再帰的に考えられ、選択のうえで決定される。これは人々が非合理な抑圧や理不尽な拘束から解放されて選択の自由を獲得するとして単純に喜んでばかりいられることでもなく、むしろ――サルトルの言葉を使えば――自由の刑に処せられるということです。すべてが選択の自由にゆだねられているという状況は、実はフラストレーションのたまるものです。たとえば親や学校の先生から「こうしなさい」と強制的に言われれば腹も立つけれども、選択の負担は回避できる。だから、仮にその結果が望ましくないものであるならば、その責任を親や教師に転嫁することもできる。しかし全てが自由にゆだねられているとなれば、その選択のリスクは全て自分が負わなければなりません。さらにまた、全ては選択の自由とされながらも、じっさいにどのような選択をするのが望ましいかについて、暗黙の期待があり、その期待の地平を守らせるような無形の力がある。つまり、ポストモダン的・多文化主義的・消費社会的な現代社会においては、あらゆる拘束が無いように見えて、その実何がしかの拘束が目に見えにくいかたちで主体に働きかけるわけです。「実体が柔らかいのに、存在の状況が硬質なのだ」(村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』)。ジジェクが現代のポストモダン的・多文化主義的・消費社会的な自由と寛容に苛立ちを隠さないのはそのためです。


リスク社会論が見落としているのは自由な選択の過剰がいかに重荷となりうるかという点です。人々はつねに、確固とした知識も無いまま、自分の人生にかかわる選択を行なうこと、そして、よく認識しないままに行ったその選択にたいして責任を取ること、を迫られるようになる。反省性/再帰性の増大による選択可能性の増大を説くリスク社会論に欠けているのは、選択の自由の過剰がもたらす実存的不安だ、とジジェクは言いたいようです。「こうして主体は、何に対して責めを負うべきかさえ(そもそも罪を負っているのだとすれば)理解できないという、カフカ的な状況に置かれていることに気づく」(P.83)。


こうした反省性の行き着く果ては反省性の無力化であり、そして反省されざる“所与のもの”を偽装した「自然」(とりわけその最たる例として剥き出しの暴力)の噴出です。反省化が進んだ今日、郊外暴動について、移民層の社会経済的排除といった観点から説明することは容易であり、場合によっては暴動の当事者自身がそのような解釈を行なうこともあるかもしれません。ちょうど精神分析において、治療者みずからが精神分析の知識をすでに知っており、自分の症状を自分で解釈して見せるように。にもかかわらず、暴力や症状は消えることがない。ここにおいては、真実の認識は人々を正しい方向に導くという啓蒙主義的理想の限界が露呈します。


以上がジジェクの郊外暴動論の乱暴な要約です。郊外暴動を「行為への移行」、すなわち無意味で過剰な暴力として理解する点については、賛成半分、反対半分という気分でした。反対の理由から。たしかに郊外暴動にはなんら積極的なヴィジョンがありませんでした。しかし、そのようなヴィジョンの欠落は、この暴動がまった無意味で理解不能な暴力だったことを意味するわけではありません。言葉で語られなかったにせよ、その行動じたいが何がしかの理解可能なメッセージを含んでいたのはたしかであり、まったく無意味な破壊活動として、したがって行為への移行として見なすのは違っているように思われます。そもそもジジェクは「行為への移行」の概念を安易に適用しすぎる嫌いがあるように思います。さまざまな破壊的現象――世界で多発する民族的・宗教的紛争はその典型ですが――を紋切り型の枠組みで理解してわかった気になるのではなく、むしろ理解不可能な壁――バカの壁?――であることをはっきりと認識することによって、よりラディカルな社会変革へと駆り立てるというのがジジェクの目指すところであるとすれば、解釈可能な暴力ではなく、解釈を拒絶する純粋な暴力であるほうが好都合なわけですが、しかし郊外暴動の難しさは、それが理解できない暴力である点にではなく、むしろあまりに容易に理解できてしまう――貧困、差別、排除といった紋切り型で――にもかかわらず、そのような理解が問題の適切な解決に結びつかない点にあるのではないでしょうか。


次に賛成の理由を。上で述べたことに反することを言うようですが、郊外暴動を、貧困・差別・排除といった通常の社会学の枠組みのなかでの理解だけで済ませて本当によいのか、という疑問が残るのも、やはりたしかです。昨年7月にロンドンで同時多発テロが起きましたが、この事件も移民二世による事件でした。4ヵ月後にフランスで起こった郊外暴動と並んで、ヨーロッパにおける移民の社会統合の難しさを印象づけた事件であり、そして郊外暴動と同じように移民の貧困・差別・排除といった枠組みで語られました。その時、一連の報道を見たり論説を読みながら漠然と、たしかにそのような枠組みで説明されるべき部分があるのは間違いないけれども、それだけでは何かを見落としているのではないか、と感じたのを覚えています。その何かを言い当てるためには、たとえばそれをオウム事件と並べてみるのがよいのではないか、と。オウムによる地下鉄サリン事件については、特定の集団の貧困・差別・排除といった枠組みはもちろん当てはまりません。ではそれは、何によって説明されるべきなのでしょうか?私のオウム真理教の信者たちについての理解は村上春樹の『約束された場所:underground2』に拠っています。


約束された場所で (underground2)

約束された場所で (underground2)


これを読むと、すべてが許され、相対化される自由な消費社会のなかで生きるフラストレーションが、オウム信者たちの入信動機であったことが窺えます。消費社会は人々に楽しむことをひたすら促す社会です――`enjoy`と書かれたコカコーラの看板は、まさにその象徴です――。しかし、そういった楽しむ能力を欠いた人、あるいは楽しむことが上手でない人にとっては、楽しむことを強いられるこの消費社会はむしろ苦痛です。そのような人々にとって、宗教教団はその人たちを保護するシェルターの機能を担うものとなります。ここにオウム教団が信者たちを惹きつけた理由があります。しかしもちろんこれだけでは入信動機にはなっても、犯行動機にはなりません。この犯行動機を理解するうえで、ジジェクの「羨望」についての考察が手がかりとなります。享楽能力が不平等であり、楽しむことができる人と、できない人が要るという状況から、後者は羨望を抱く。このような羨望はもちろんそのままで現われることはなく、平等や正義の要求というかたちをとって現れます。「正義の要求は最終的に、享楽へのアクセスが誰にとっても平等になるよう<他者>の過剰な快楽を抑制してくれという要求になる。」(P.64)そしてこの羨望の行き着くところに暴力が現われます。


「主体は<他者>による宝物の占有そのものではなく、<他者>が対象物を享受している様子を羨望している。そのため、対象物を奪って自ら所持するだけでは満足できない。真の目的は、対象物を楽しむ<他者>の能力を破壊することにあるのだ。」(P.65)


消費社会の苦痛から脱するために教団に入った信者たちは、教祖の命令のもと、消費社会としての現代社会そのものの破壊を目論んだのだと考えられないでしょうか。ここに、地下鉄サリン事件が自由な消費社会の副産物と見なしうる理由があります。ロンドンの連続テロ事件にも、そういう側面があるのではないか、だから移民の貧困・差別・排除といった点だけで見ていては、事件の性質をどこかで見失うのではないかと、いう気がします。


ロンドンの事件のときはあまり突きつめて考えることなく終わっていたのですが、今回ジジェクの論稿を読んで、ロンドンの連続テロ、フランスの郊外暴動、そして東京の地下鉄サリン事件ポストモダン的消費社会において間歇的に顕在化する剥き出しの暴力の例として一つの糸で結ぶ可能性が見えてきたように思えました。そう言えば、『ダンス・ダンス・ダンス』で消費社会の不自由を書いた村上春樹が、つづく『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』で暴力の問題を取りあげたのも、おそらく偶然ではないのでしょう。ともあれ、ロンドンの連続テロとフランスの郊外暴動は、移民の貧困・差別・排除と自由な消費社会という二つの現実の複合作用として生じた出来事と言えるのかもしれません。

               


リスク社会論への批判については、どうも従来のリスク社会論(とくにギデンズのそれ)が、伝統や自然から再帰的な選択可能性への移行を(まるでかつての近代化論のように)一方向的・規範的に語りすぎていて、この方向に収まらない現象や、この方向からもたらされる負の側面を十分に目を向けていないように感じていたので、大いに納得しました。そもそもリスク社会論は現在と未来しか視野に入れておらず、過去の次元が欠落しています。そこにおいて前提されるのは、複数の選択肢があって、それぞれの選択のおよぼす効果を予測(反省)したうえでどの選択肢を選ぶかを決定するような状況です。選択肢の多様性や、選択肢と将来についての情報の不足のために、選択にはつねに不確実性がともない、これがリスクと呼ばれるわけです。


しかしこのような状況がじっさいの選択の場においてどこまで成立しているか、かなり怪しいものだと思います。じっさいの選択は、このようにニュートラルな状況でその結果を理性的に考えたうえで行なわれるわけではなく、むしろこれまでの経験の記憶が特定の選択へ促し、理性的計算はその後付けとして行われるのが実情ではないでしょうか。先日、NHKの『プロフェッショナル』で将棋の羽生名人が出演していて、ホスト役の茂木健一郎が羽生名人にたいし、将棋の名人と人工知能の違いに触れ、人工知能はあらゆる可能な手を計算して次の一手を決めるのにたいし、名人の場合は盤上のコマの配置から直観的に次の一定を選択すると聞くがそれは本当か、と尋ね、羽生名人はたしかにその通りだ、次の一手を何にするかは最終的には「好み」だと言っていました。この「好み」を形成しているものこそが、記憶と言えるでしょう。リスク社会論は、あたかも人間が人工知能のようにすべてを合理的に計算したうえで選択するかのように想定しているわけですが、それはじっさいの選択行為とはかけ離れているもののように感じられます。


このような過去の力への視点の欠落のために、リスク社会論は「伝統・自然から反省的な選択へ」という一方向的な社会変化しか語れないことにもなります。これでは反省されざる“自然”(暴力)の突発的な顕在化や、伝統の再-導入の試みは、「非合理な現象」として語ることしかできないでしょう。しかし、郊外において発生した暴力は、「伝統・自然から反省的な選択へ」の移行が唱えられる社会において生じた自然の暴発です。リスク社会のもう一つの裏面として、伝統の再-導入があります。それはある場合には宗教(イスラム)に向かい、ある場合には歴史に向かいます。しかしそれらは、理解不可能な壁というわけではありません。移民のコミュニティの視点に立ってみれば、自由や平等といったホスト社会の側の理念が移民たちの社会統合を推進しないときには、宗教や歴史といった、より自分たちにとって利用可能な資源を動員して自分たちのコミュニティの強化と社会的地位向上を図るのは、理解しうる選択です。


ダンス・ダンス・ダンス』で、あらゆることが自由な状況のなかでの不自由について語った村上春樹は、次作『ねじまき鳥クロニクル』で歴史に向かいました。フランスの移民たちの中にも、自らの歴史的ルーツとして奴隷制植民地主義へ関心を持つ傾向が高まっています。この歴史の探求が、自由な社会の不自由さの克服につながるかどうかは、この歴史をアイデンティティの政治の道具に終わらせるのではなく、形式的な統合の限界を超えて真の統合を可能にするものとできるかどうかにかかっています。そしてそれは、やはり自由な社会の不自由さの中で生きるわれわれにとっても同じことだと思われます。