ニューカレドニア見聞録(2):独立運動と多民族共生

ホテルのネコ

  1774年、イギリス人ジェームズ・クックの上陸をきっかけとして、ニューカレドニアはヨーロッパ諸国に知られるようになりました。その後、フランス軍の征服により、1853年にはフランス領となりました。それ以降ニューカレドニアは、流刑地として多くの犯罪者や政治犯が送られました。現在のヨーロッパ系住民の多くは、その子孫になります。また、植民地として、ニッケル採掘が進められ、その労働者として多くの移民が受け入れられました。インドネシアベトナム、中国、そして日本から、鉱山労働力として移民がやってきました。
  もう一つ、ニューカレドニアには重要な民族グループがあります。それは「カナク」と呼ばれるメラネシア系の先住民族です。全人口約20万人のうち、44%をカナクが占め、フランスを中心としたヨーロッパ系が34%、そして残りがベトナムインドネシア、中国、日本などからの移民、そしてポリネシア系です。ニューカレドニアはこれらの多様な民族的ルーツを持つ人々からなる多民族社会です。
  「天国に一番近い島」であるニューカレドニアでは、これら多様な民族グループがのんびりと、仲良く暮らしています…と言えれば今回の話はこれで終りなのですが、幸か不幸か、終わりではありません。今回は、ニューカレドニアの民族間の関係などについて書いてみようと思います。


  ニューカレドニアの多様な民族グループを大きく分けると、ヨーロッパ系、アジア系、カナクの三つに分類できます。滞在中に観察できた範囲で言えば、この三つのグループがそのまま階層構成とも対応しているようです。一番上にヨーロッパ系が位置し、大規模な企業の所有者や管理職、行政の要職などを占めています(ブルジョワジー)。真ん中にアジア系がいて、企業労働者や小規模店の経営者(自営業)が多く(プチ・ブルジョワジーおよびプロレタリアート、一番下にカナクの人たちがいて、ホテルの掃除やタクシー運転手などをしているか、あるいは無職の人が多い(プロレタリアートおよび下層プロレタリアート)。
  ただし今回の観察だけでは、この階層構造がどこまで固定的なものなのかは、何とも言えません。現地滞在の日本人たちの話によると、最近ではカナクの人たちのなかにも良い車に乗っている人もいるし、昔と較べれば彼らの生活はずいぶん豊かになった、と言います。今、官公庁の組織図の載っているパンフレットが手元にありますが、それを見ても、いろんな要職にカナク系らしき人の写真が載っています。だから、階層構造がもはやないとまでは言えないにせよ、かなり改善され、格差はかつてほど固定的なものではなくなりつつあるというのが、現在の状況のようです。
  状況が改善されるきっかけとなったのは、1980年代のカナク独立運動です。出発前にはあまりよく知らなかったのですが、この時期、この島は独立運動に揺さぶられ続けたのだそうです。現地に行ってみると、自ずとそういう話になることも多く、とても興味深い話がいろいろ聞けました。
  ヌメア在住で、独立運動が最も激化した頃の様子を間近に見ていた日本人の話によると、フランスから憲兵が3,000人も来て、運動参加者に催涙弾を発射していたそうです。人口20万そこそこの小さな島ですから、3,000人の憲兵というのは大きな数字です。
  独立運動のリーダーだったのは、ジャン=マリー・チバウというカナク生まれの人物でした。カナク族の酋長の家に生まれ、カトリックの司祭でもあった彼が独立運動へと傾斜していく一つのきっかけとなったのは、60年代後半、フランスの大学で社会学・人類学を学んだことです。60年代後半のフランス社会の反逆の空気を吸い、また社会学・人類学をつうじて自分の生まれ育ったカナクの文化の意味や意義をより深く知っていき、しだいに独立への意識を募らせていきました。後者の点は、とくに重要だったと思います。
  植民地体制の下、カナクの伝統的な風習は否定される過去の野蛮な遺物でしかないとされ、カナクの人々自身もそう思いこまされてきました。しかし自分たちの生まれ育った風習はけっしてそのようなものではなく一つの文化であること、この伝統文化は未来の発展のために捨て去るべきものではなく、むしろそれを基盤にすることによってこそ未来の発展が可能であること、そして伝統もまた変わりゆくことを受け入れること、チバウはそのような価値観の転換を推進しようとしました。
  こうして見出された伝統文化がカナク独立運動の基盤となります。彼は1975年、「メラネシア2000」という文化フェスティヴァルを成功させ、これをきっかけにカナクのリーダーとなります。伝統文化によってカナクのかたち、カナクの集団的なアイデンティティが明確にされ、その伝統文化を推進する文化運動によって、政治的な独立運動が可能となったのです。
  80年代後半に内乱が激しくなりますが、1988年、マティニョン協定によって独立派のチバウと体制派のラフルールとが話し合いのテーブルにつくことを選び、争いは収まりました。この協定で、カナクを経済的・社会的・文化的に支援するとともに、独立を問う住民投票を10年後に行うことが決められました。しかし翌年、チバウは独立強硬派によって殺されてしまいます。
  88年の10年後である98年には、住民投票が実施される代わりに、新たにヌメア協定が結ばれました。これは、2018年までに軍事・司法・貨幣などを除く全分野での主権を委譲することを決めた協定です。
  この二つの協定によって、独立の問題はもう片づいたのでしょうか?それはまだわかりませんし、たぶんニューカレドニアの人々にとっても、わからないことでしょう。その意味で、オープンエンドの問いなのだと思われます。とはいえ独立は、選択肢としてはまだあるものの、現実にはなかなか難しい選択のようです。
  カナク以外のヨーロッパ系およびアジア系の多数は、独立に反対なようです。カナクの中でも留学するなどして外部世界の状況も知っている人々は、独立には慎重なようです(もちろん単純に一くくりにはできませんが)。
  フランス国内に留まっていれば、本国からのさまざまな経済的支援もあって本国並みの生活もできるし、フランス国籍があるのでニューカレドニア・フランス・EUのどこだって自由に行き来できる。しかし独立したら、そういった多くのメリットを失ってしまう。ニッケルしか産業のないこの国で、もしも他国でニッケル需要がなくなれば、たちまち職はなくなり、生活水準は下がる。人口20万人の小さな島で、会社をつくって経営し、税金を徴収して国を動かし、人材を育てるために学校を運営し、病院やさまざまな施設も運営するといったことを全て自分たちだけでやるのは相当なコストがかかる。そう考えると、独立の理想を実現するにはなかなか厳しいものがあるようです。
  このような現実をふまえて、現在のニューカレドニアは独立と同化のどちらでもなく、そのあいだをゆくべく`decolonization sans independence`(独立なき脱植民地化:マティニョン協定のさいにロカール首相の用いた言葉)を目指しています。これがうまく行くかどうかは、カナクの人々が社会参加できる環境をどのように整備していくか、が重要な鍵となると思われます。
  個人的に興味深いのは、このように独立問題に直面し、それを「独立なき脱植民地化」というかたちで切り抜けようとしているニューカレドニアが、その実現のために、「歴史の脱植民地化」に着手し始めていることです。
  これまではこの島の歴史と言えば、ジェームズ・クックが「発見」し、フランスが「文明化」の大義のもとに植民地化/近代化していく過程そのものでした。しかし現在では、カナクや、前回述べた日系人など、さまざまな民族グループが、自分たちの歴史的ルーツを再確認し、自分たちのアイデンティティの社会的承認を得ようと努力しています。こういった傾向は、多文化主義がさかんな国々では、70年代からあったことですが、同化主義的傾向の強いフランスでは、それは「社会をバラバラにする」こととして、否定される傾向がとても強いのです。
  今日のニューカレドニアでは、あえてそれを行っています。それは社会をバラバラにするためではもちろんなく、むしろ、それぞれの民族が互いの歴史と文化を共有するためです。ここでこの「共有する」という言葉は、チバウ文化センターの館長エマニュエル・カザレルゥ氏があるテクストで用いた`partager`という言葉を念頭においています。それは、かならずしも異なる民族が同じ歴史と文化を持つことではありません。それは限りなく不可能に近いことだし、望ましくもないことかもしれません。共有するとは、異なる歴史と文化を異なるものとして互いに知り、認めることです。それが双方の側からなされたとき、さまざまな民族の共存する社会が可能となるのでしょう。
  もちろんその試みは、ニューカレドニアでもまだまだ端緒に着いたばかりです。あるとき、少し前の中学校の歴史の教科書を見せてもらう機会がありましたが、そこで書かれるニューカレドニアの歴史は、やはりフランスによる植民地化の歴史で、カナクやそれ以外のアジア系の人々については、100ページ以上ある中で、「ニューカレドニアの人々」という項目2ページ分で簡単な記述がされているだけでした(もしかしたら現在の教科書は違っているかもしれません)。日系移民の歴史も、歴史の授業ではなく、日本語の授業の中で、教師が自分でつくったプリントで教える程度のようです。学校教育のなかでは、多民族の歴史と文化の共有という課題はまだあまり試みられていないようです。
  しかし、注目すべき試みもありました。ヌメア市立博物館の横に小さな別館があるのですが、ここでは、ヨーロッパ系やアラブ系(フランスはアルジェリアを植民地化したとき、抵抗したアラブ人をここニューカレドニアに追放しました。だから現在でも一部の子孫が住み、ブーライユという町にはモスクがあります)が追放されてニューカレドニアにやってきた歴史、日本人やベトナム人の移民の歴史、そしてフランスがやってきたとき、カナクの人々を島の外に追放した歴史についても、率直に展示されていました。日系移民が太平洋戦争中、逮捕・抑留されたことについても、展示されていました。
  実は、毎日新聞の記者Mさん(今回のインタビューはほぼすべて彼と一緒に行いました)・琉球新聞の元記者Mさんと一緒に、ニューカレドニアに着いてほとんど最初に行ったのがこの博物館で、まだ全体状況がよくつかめてないままにこの展示を見たので、公立の博物館で自分たちの歴史の負の部分をこんなにきっちりと展示するなんてずいぶん誠実だな、と思ったものでした。その後、帰国間際にはもう一度この博物館に行き、館長にインタビューをしたのですが、その頃にはある程度ニューカレドニアの全体状況がつかめてきて、この展示が示す歴史観がかならずしもニューカレドニア全体で共有されているわけではないことが見えてきました。けれども、ともかくも植民地主義の負の部分にもきっちりと光を当てるこの展示が、先に言ったような歴史の脱植民地化――この博物館の館長は「カレドニア化」calédoniserという表現を使っていました――をおし進めるうえで、一つの貴重な試みであることには変わりありません。
  今後、ニューカレドニア史の脱植民地化/カレドニア化がどのように進んでいくのか――いつかまた訪れる機会があったら、あらためて注目してみたいと思います。