ニューカレドニア見聞録(1):日系人たちの記憶

チオの日本人墓地

  フィールドノートもほぼ書き終わったので、今日はニューカレドニア旅行をきっかけに感じたこと・考えたことを書いてみようと思います。もっと資料を読み込んで正確な知識を得てから書こうかとも思ったのですが、それをしているとこの先ずっと書けなくなってしまいそうだし、旅行で得た思いを新鮮なうちに書き表しておかないと忘れてしまったり変質してしまうだろうし、そもそも別に専門論文を書くわけでもないので、とりあえず書くことにしました。
  今回の旅の目的は、以前に書いたように、Tさんの展覧会関係の種々のイベントに参加すること、それからニューカレドニアの日系移民史をさまざまなかたちで辿ることでした。そしてその合間合間にいろんな人にインタビューを行いました。そんなこんなで、毎日することが多かったんです。
  出発前、いろんな人に「ニューカレドニア?いいなー」と言われて、「いや、観光じゃなくて仕事で行くんです」と答えてたんですけど、それでもまぁ一日くらいは海に行く時間もあるだろうと思ってたら、一日もありませんでした(泣)。
  ニューカレドニアにはウベア島、リフ島、マレ島、イルデパンなどの離島があり、観光写真に載っているような、さんご礁が広がるエメラルドグリーンの美しい海は、これらの離島周囲の海のことなのです。とくに「天国に一番近い島」というのは、狭義にはこのうちの「ウベア島」を指します(詳しくは森村桂の小説を読んでください)。今回の滞在中、大半を過ごしたヌメア周辺の海は、水の色はエメラルドグリーンではないし、さんごもありません。それでも十分きれいだけど。
  でも八月はニューカレドニアにとっては冬の季節で、思った以上に寒かった。日本で言えば三月後半から四月前半くらいの感じでしょうか。朝夕はけっこう冷えて、長袖がないと肌寒い感じです。昼間も、泳ぐにはまだちょっと寒い季節だったようです。というわけで、海はまた次回の楽しみということで。


  さて、今回の旅の目的であった日系移民史についてですが、僕は歴史学者ではなく社会学者であり、とくに記憶の問題に関心を持っているので、過去の記憶と歴史が現在においてどのように語られるかに興味があるのですが、その辺りについて、少し書こうと思います。
  19世紀末から第一次世界大戦後にかけて、約5,000人の日本人がニッケル鉱山の契約労働者として渡航し、その子孫が現在でもニューカレドニアに住んでいます(もちろんその中にはさまざまなタイプの混血を含む)。
  日本人移民史の中でニューカレドニアのケースがやや特殊なのは、原則的に成年男性の単身渡航のみが認められことです。そのため、彼らの多くは現地のヨーロッパ系やインドネシア・ヴェトナム系、先住民族カナクの女性と結婚しました。彼らは家庭の中ではフランス語でしゃべり、現地の文化・風習に適応していったので、日本語や日本文化が子や孫に継承されていくことはありませんでした。そのため、ニューカレドニア社会の中で日系人としての共通のアイデンティティが形成されにくく、日本でもニューカレドニアへの移民たちの存在は忘れ去られていきました。
  ニューカレドニア日系人にとって決定的な歴史のターニング・ポイントとなったのは太平洋戦争でした。南北アメリカなど他の日系人がいる地域同様、1941年の真珠湾攻撃の翌日、ニューカレドニアの日本人は全員逮捕・拘束され、収容施設に入れられました。翌42年にはオーストラリアの施設に移され、戦後、日本に引き揚げました。
  先に述べたように、日本人男性の多くは現地人女性と結婚していました。しかも多くの男性は、いつか日本に戻ることを考えていたためか、法的に正式な結婚というかたちをとっておらず、フランス国籍を持っていませんでした。だから開戦時の逮捕・抑留、そして敗戦後の引揚げは、そのまま一家離散となってしまったのです。外国への渡航が簡単ではなかった時代です。家族と再会する機会が遂にないまま、多くの人は亡くなりました。なかには戦後、ふたたびニューカレドニアに戻った人もいます。しかし、妻は既に別の人と再婚していた、といったこともありました。
  この一家離散は、もちろん引き揚げた男性たちにとっても辛い体験でしたが、悲惨だったのは残された妻子です。とくに当時、まだ十代前半だった二世たちは、極度の貧しさのなかで、生きていくために仕事に就きました。“敵国”だった国の人間として、周囲の差別も厳しく、日系人であることを隠すために姓を母方のものに変えた人もいました。
この戦争時の出来事が、ニューカレドニア日系人たちを一つに結びつける集合的なトラウマになっています。言い換えれば、この歴史的トラウマを核として、ニューカレドニア日系人たちの共通のアイデンティティが形成されているのです。こういった集合的アイデンティティの模索の動きが表面化したのはほぼ70年代からです。
  その背景として、一つにはある程度戦後の混乱が収まり、生活が安定して語る余裕ができたこともあるでしょう。じっさい、極度の貧しさのなかで、その日その日の生活に手一杯な状況では、過去を振り返り、記憶を辿る余裕さえありません。「戦前の幸福/戦後の不幸」という語りの図式は、満州から日本への引揚者や、アルジェリアからフランス本国への引揚者(ピエ・ノワール)の多くに共通して見られる戦争の記憶の一つの定型ですが、それはニューカレドニア日系人たちにもまた、見られるようです。しかしこの図式が、いつもいつも当事者の頭の中にあったわけではないことに留意するのも、重要なことだと思われます。
  たとえば日本人の父親を持つ二世のA・Nさんは、インタビュー時、父親との別離はもちろん辛かったが、戦後アメリカ軍がやってきて物資や仕事が増え、生活が楽になって嬉しかった、と語りました。これを日系人以外の人が言ったなら、僕もとくに何も思わなかったかもしれませんが、父親と別れるきっかけとなった戦争の相手国の駐留を喜ぶ発言だっただけに、少し意外な感じがしました。しかも彼は戦後、はるばる日本までやってきて、父親にニューカレドニアに戻ってくるよう頼むほど、父親を思う気持ちがとても強かった人です。その人がこのように語るのですから、当時の生活の苦しさがそれだけひしひしと伝わります。
  70年代以降、ニューカレドニア日系人たちが自分たちのルーツについて捜し求め、積極的に語っていくようになったもう一つの背景として、当時の社会状況があげられるでしょう。当時、カナク族の覚醒運動が起こり、カナク人によるカナク文化の探求が盛んに行われるようになります。それは後に80年代の独立運動へと発展していくのですが(この辺りについては次回のブログで)、そのような運動に幾分かは刺激されたのかもしれません。それまで、同化主義的なフランスの方針のもとで抑圧されてきたさまざまなエスニック・グループの記憶や歴史、文化を公けに語ることができる社会状況が出現しはじめたのだといえるでしょう。
  ニューカレドニアにはAmicale japonaise(日本人親善団体)という日系人二世や三世の団体があり、今回の滞在中、圧倒的なホスピタリティでもってさまざまなコーディネートをしてくれたのも、この会の人たちでした。メンバーたちは、僕らがインタビューをすることを喜んでくれました。というのも、現在でもなお、当事者どうしではなかなか恥ずかしくて聞き出せず、語り出せないことも、外部の人間が質問してくれると答えやすいから、ということでした。
  もしも僕らのインタビューが多少なりとも良い刺激になったとすれば幸いですが、印象的だったのは、ここで「恥」という言葉が出たことでした。
  記憶は人間がもつ普遍的な能力であり、人間が動物と違い、状況反射的な行動以上のことができるのは、記憶があるからです。その意味で、記憶は人間を人間たらしめるものです。でも、その記憶を人間はいつも想起し、語るとは限りません。先に述べたように、日々の生活で手一杯なために、あるいは社会状況がそれを許さないために、語られないこともあります。
  また、そのような外的要因ばかりではなく、もっと内的な要因のために、語られないこともあります。「恥」の感情がそれです。今回、僕らにもずいぶん親しく接してくれた作家D・D――彼自身、カナク人と日本人の血を併せ持つ三世――は、あるところで書いています。「苦しみ過ぎた者というのは、自分がどれだけ苦しんだかを語り、認めるのが恥ずかしいのだ…」。これは、彼のおじAさんについての短文のなかに出てくるフレーズです。滞在中、彼のおばNさん(Aさんの妹)に会い、その話を聞いて、この言葉の重みがすこし理解できた気がしました。それについては、次回書こうと思います。