作田先生のこと

作田啓一先生が15日に亡くなられた。


先生が主催する研究会に参加するようになったのは2001年か2002年、ポスドクをやっていた頃だったと思う。先生はすでに京大はもちろん、定年後に着任された甲南女子大も退職されていた。しかし80歳になってなお、頭脳は明晰で、最新の思想を摂取して思考を刷新・深化し続ける姿に、ほとんど人間観が変わる思いがした。人間の身体にとって老化は自然なプロセスの一環だけれども、脳だけはそのプロセスからいささか外れていて、身体の加齢が進行しても高度な機能を保つことができるということを、知識としては多少知っていたけれども、先生との出会いはそれを眼前に示されたようで、衝撃だった。先生は生成する知性そのものだった。


研究会の後の飲み会でご一緒するとき、いつも先生の生活史を、もっとお聞きしたいと思っていた。それは先生が戦争や学生運動など、20世紀の激動の時期を当事者として体験されてきたからでもあるし、先生の思想がどのような過去の体験とどのように関係しているのかを知りたかったからでもあった。


けれども、先生はプライベートなことをほとんど語らなかった。そして先生からは、何となくプライベートなことを伺うのがためらわれる感じがした。


だから先生のブログや、先生ともっと付き合いが長く密な他の人から時々聞くくらいのことしかわからなかった。それでも、断片的なエピソードから、先生のしなやかな知性の裏側にある過去が垣間見えることがあり、いっそう先生の奥深さに魅せられていった。それは少し、漱石『こころ』の「先生」にたいする「私」の感情に近いものがあったのかもしれない。


先生は社会学を標準的な学説研究と実証研究の枠に閉じ込めず、文学や哲学など他分野に開き、社会学のフロンティアを押し拡げてこられた。私が博士論文で文学の社会学という、まったく非主流的なスタイルの研究をすることができたのも、先生や、先生の薫陶を受けた他の先生方が道を切り開いてくださったからだった。制度から横溢し、制度を越えていくところにおいて人間を探求する先生にとって、社会学や哲学といった区別は、思考を制度化するものでしかなかった。先生は、思考することの自由を、学問することの純粋な楽しみを感じさせてくれる人だった。


先生のご冥福を心からお祈りします。