3.11後に『危険社会』を読む

Yumat2011-07-31

1986年に出版されたドイツの社会学者ウルリヒ・ベックの『危険社会』は、すでにリスク社会論や環境社会学の古典となっている。チェルノブイリ事故の直前、そしてフクシマ事故のはるか四半世紀前に書かれながら、破局的事態を引きおこす危険=リスクを構造的に内包した現代社会を批判的に素描した本書には、今日の日本の状況を驚くほど正確に言い当てる箇所が随所にみられる。(インターネットには本書がチェルノブイリ事故を受けて書かれたとする記述もあるが、事故が起きたのは1986年4月、「まえがき」の日付が1986年5月であり、まえがきは通常本を執筆し終えた後に書かれるものなので、出版直前に多少の手直しくらいはあったかもしれないけれども、基本的には事故前に書かれていたはずである。)


危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)


とはいえ、本書は決して読みやすい本ではない。読みにくさの理由はいくつかあるけれども、その一つは、本書を構成する三つのパートの連関が曖昧なところにあるように思われる。第1部では、現代のリスクが産業社会のそれとどのように異なるのか、この新たなリスクをめぐって科学者・政治家・企業・住民はどのように考え、どのように動くのか、リスクはどのように社会の中に構造的に組み込まれるのか、あるいは逆に社会はどのようにリスクを軸に構造化されるのかといった点について論じながら、現代社会の時代診断が行われる。現在の日本を予測するかのような文言が随所に見られるのも、この第1部である。



第2部は、階級、家族、男女関係、職業労働など、産業社会における生活基盤をなしてきたものの変容が論じられる。そして第3部では、科学技術や経済が高度に進歩し、それ自体社会に対する大きな影響力を持つようになり、他方でその進歩の影−リスク−も飛躍的に高まった状況下で、そのリスクを政治的に制御する可能性について論じられる。


第1部と第3部のつながりはわかるとして、第2部の位置づけがわかりにくい。ベックの理解によれば、かつての産業社会においては、リスク・階級や家族・政治的解決は密接に関連していた。産業社会における最大のリスクは何よりも貧困であり、このリスクにたいする制御メカニズムとして個々人の生活に密着したレベルにおいては性別役割分業にもとづいた家族、集団的な生活様式をもたらす階級、フルタイムの雇用があり、そして社会全体のレベルでは議会制民主主義(いわゆる政治)があった。


しかし近代化は、失敗によってではなく、まさにその成功ゆえに、みずからの到達地点そのものをも掘り崩してゆく――この論理はマルクスの資本主義についてのそれとよく似ている――。この段階になると、これらの制御メカニズム自体が崩れてゆく。労働者の富裕化にともない階級は実質性を失い、女性の社会進出により家族構造は変容し、雇用は多様化・柔軟化することによって不安定化する。つまりは「個人化」が進行し、家族や階級といった集団的な単位でのリスクへの対処が困難になる。これが第2部の骨子である。


第3部では、高度に発達して大きな力をもち、多くのリスクを生み出すようになった科学技術や経済にたいする政治的制御の可能性が模索される。しかしベックは、従来の議会制民主主義型の政治にやや悲観的である。さまざまな組織やセクターが多種多様に分化しつつ発展してゆく社会システムを議会政治(だけ)によって制御することは、もはや不可能に近い。そこでベックが重視するのは、各組織・セクターの自己批判をつうじた内部制御と市民運動である。原発問題になぞらえるならば、原子力工学の学会が原発の賛成派と反対派の両方に開かれ、電力会社が情報公開を徹底し、市民が原発をめぐる意思決定に何らかのかたちで参加するというのがベックの描いている代替的な政治的解決であり、それは国会で議員が行う政治とは異なるが、やはり政治の一種であるため「サブ政治」と呼ばれる。


本書は「危険=リスク」をキーコンセプトとして現代社会をトータルに素描しようとした本であり、その現代の特性を、産業社会のそれと対比させながら論じている。第1部では、現代のリスクがかつてのリスクすなわち貧困といかに違うかが説得的に論じられる。また、第3部では、リスクの政治的解決法として、従来の議会制民主主義に替わるサブ政治の可能性が控えめながら提示される。それには分析というよりも規範的な主張に近いところもあるけれども、時代診断的な現代社会論に規範的な主張が含まれるのはある意味で当然(診断後の“処方箋”の提示として)なので、それは特に問題ではない。それにたいして第2部では、家族や階級、フルタイム労働といった、産業社会のリスク(貧困)に対応する生活形態が個人化によって変容しつつある、ということは述べられるものの、肝心の現代型のリスク――放射能や化学物質――に対応する生活形態がどのようなものなのか――そもそもそのようなものがあるのかどうか、あるとして、それは一定程度の制御機能を果たしえるのかどうか、などを含めて――が、十分に展開されていないので、第2部とその他の部分との関連がややわかりにくい。


一冊をとおして、現代のリスクに焦点を絞り込んで議論が展開されていたら、この上ない強度をもった書物になっていたのではないかという気がするけれども、しかし何といっても本書の白眉は第1部にある。以下にいくつか、その例となる文章を、注釈なしで引用しておきたい。注釈を付けないのは、幸か不幸か、3.11以降に広く知られるようになったことの一つ一つが、それ自体で余計な注釈など不要にしているからである。




「危険を確認する場合の基礎になるのは数値の範囲であり、また社会の利害である。科学的根拠に裏付けされた場合でさえそうであり、科学的に裏付けされているからこそそうである。」


「近代化に伴う危険の下では、遅かれ早かれ作為者と犠牲者が一体化してしまう。」


「極度の貧困と極度の危険との間には構造的な『引力』が働いているのである。…働き口のない地方の人々が、職場を生み出す『新しい』テクノロジーに対して、『かなり許容度が高い』…」


「貧困と闘う人々の目には、大きなパイプやタンクを備えた化学コンビナートは、成功の貴重なシンボルとして映っている。…目に見える脅威である餓死と、目に見えない脅威である中毒死とで、どちらを取るかという選択においては、目に見える物質的な貧困の克服に軍配が上がる。」


「知覚できる富と知覚できない危険との有意性をめぐる闘争において、危険は優位に立てない。目に見えるものと目に見えないものとの間では、競争にならないのである。逆説的に言うなら、まさにそれゆえにこそ、この競争では目に見えない危険が優位を占めてしまう結果となる。/どうせ知覚し得ない危険であるので、それを無視することは、具体的な貧困をなくするという大義名分の下で、つねに正当化される。…貧困が明白に存在することによって、危険を知覚することは難しくなっている。とはいえ、貧困によって抑えられているのは危険を知覚することである。それによって危険の現実性や影響が貧困によって少なくなるわけではない。」


「重要と見なされるのは、危険を対症療法的に、また形式的に『克服する』ことである。危険はいわばその克服を通して増大してゆくのである。危険はその原因を取り除いてはならない。すべては危険の粉飾という形で行わなければならない。例えば、有害物質をわずかに減少させたり、汚染源はそのままにして浄化フィルターをつけたりなど。」


「科学は『危険を認定』し、国民は『危険を知覚』することになる。」


「危険を生産しておきながら、それを正しく認識できない大きな理由は、科学技術の合理性が『経済しか見ない単眼構造』にあるからである。この目は生産性向上に視線を向けている。同時に、構造的に見て危険には盲目なのである。経済的に見合うかどうかという可能性については、明確な予測が試みられ、よりよい案が追求され、試験が行われ、徹底的に各種の技術的検討が行われる。といころが危険については、いつも暗中模索の状態で『予期しない』危険や『全く予期し得ない』危険が出発して初めて、心底怯え、仰天するのである。」


「飢えや困窮の場合と違って、危険の場合は、不確実性や不安感がかきたてられても、それを解釈によって遠ざけてしまうことも多い。生じる不安を現場で処理する必要はない。こちらへあちらへと引きずり回して、いつかその不安を克服する象徴的な場所や事物や人を捜して見つけられればよいのである。」


「危険社会では、危険を予見し、危険に耐えるとともに生活経験上どのように危険とかかわり、政治的にどのように危険を扱うかが最も重要となる。」


「細分化した管轄権限の間の障壁がなくなる。大衆が技術的な細かいことにまで立ち入って口をはさむようになる。長い間、市場経済の中で十分に働き、税金の支払いと雇用機会供給で役立ってきたため、ちやほやされてきた企業は、突然、被告席に座らされるようになる。」


「重要なのは、健康にたいしての影響、植物や動物、あるいは人の命に対する影響だけではない。危険の副作用の認知によって生じる社会的、生態学的、政治的な副作用も重要である。それは、マーケットの喪失、資本の価値の下落、忍び寄る収用、新たな責任、マーケットの移動、政治的な必然性、経営上の決定の監視、補償請求の了承、莫大な経費、裁判手続き、面目の失墜である。」


「危険社会は革命的な社会ではなく、むしろ、破局社会である。」