100,000年の孤独

Yumat2011-07-04

マイケル・マドセン監督の映画『100,000年後の安全』をDenkikanで観た。これはフィンランドの首都ヘルシンキから北西へ240キロのオンカロという町にある、原子力発電所から出される放射性廃棄物の保管施設についてのドキュメンタリー映画だ。


核燃料廃棄物による放射能の放出は10万年続く。この危険な物質のもっとも「安全」な保管方法を検討し、フィンランドの関係者は地下500メートルに保管施設を建設することを選択した。しかし、10万年後という誰も具体的には想像しえない遠い未来まで安全が保証されるということは、本当に可能なのだろうか?この映画はひたすらこの疑問を追求する。


それにしても、地下施設の内部映像や関係者――地下施設を建設する民間会社の副社長や管理部長、現場の発破工、核廃棄物管理会社の研究員、フィンランド政府の原子力安全局のスタッフ、廃棄物管理協議委員である神学部教授、放射能安全機関の研究者――などへのインタヴューからなるこんな映画が、よくつくれたものだと思う。近未来的な機械美さえ感じさせる施設の内部映像と質問に丁寧に答える関係者たちの誠実な姿とが深い印象を残す。


ともあれ、核廃棄物の安全性についての疑問を追求するなかで監督が問題にするのは、地下に埋められた核廃棄物についての知識が10万年後まで本当に伝わるのか、という一点に尽きる。地震地殻変動、保管設備の故障、落盤事故などによって施設が壊れ、放射能が漏れだす危険性については、まったく考慮されていない。もちろんフィンランドと日本との地質学的な条件の違いはあるだろうけれども、多くの地震や炭坑の落盤事故――地下500メートルにドラムカッターで道を切り開く光景は炭坑のそれによく似ている――を経験してきた日本人から見れば、不思議に思える。


しかしその分、監督の問題関心は絞り込まれ、映画の焦点は明確になっている。すなわち、「10万年後まで核廃棄物保管施設の安全性は保証されるのか?」という問いは、この映画においては「人類は10万年後の未来まで正しく核廃棄物についての情報を伝えることができるのか?」という問いに等しい。


10万年という時間を未来ではなく過去に振り向けるなら、人類はまだ存在せず、ホモ・サピエンスの時代になる。つまり10万年という時間は、人間がもはや人間とは異なる生物へと進化するのに十分な時間なのだ。それだけの時間、今と同じ言語が存続するという保証はあるのだろうか?数千年前の古代文字でさえ解読できないものがあるというのに?そもそも未来の人類――あるいはポスト人類――は、現代の人類のようには科学技術に重きを置かなくなっていたり、科学技術にかんする知識や能力が「退化」している可能性はないのだろうか?中世のように、科学よりも宗教が重視された時代もあったのだから。さらには誰かが好奇心のため、あるいは金儲けのために、この地下施設に侵入し、開けようとしたら?ちょうど近代以降の人類が、ピラミッドを発掘してきたように。


こうしてこの映画は、原発に賛成か反対かと性急に答えを導き出そうとするのではなく、10万年という時間について問うことをつうじて、人類の文明そのものについて考えさせるところまでゆく。原発について批判的に語られるとき、現在の繁栄が永遠に続くかのように考える経済至上主義(そしてその手段としての原発)にたいする批判は、これまでもなされてきた。しかしその場合でもさすがに現在の言語や知識の永続性が疑われることは無かった。その批判が想定するのは近代という時代であり、それはすなわち数百年のスパンだからだ。しかし核廃棄物という原発が生み出すゴミは、10万年というとてつもない時間のスパンで考えることを必要とする。


10万年後の人類とのコミュニケーションのリスクを考え、インタヴューを受ける何人かの人が最良の選択として答えるのは、人類が完全にこの施設のことを忘れるということ。メッセージを伝達しようとするかぎり、そのメッセージの誤解や無視、否定が生じ、メッセージが届かないというリスクは常に残る。しかし、メッセージなど存在しない、メッセージを伝えるべき何もそこには存在しない、となれば、コミュニケーションのリスクは解消する。人々がこのオンカロの施設のことを忘れ、そしてそれについて忘れているということさえも忘れるとき、この保管計画は完璧なものとなる。10万年ものあいだ、誰からも忘れ去られ、地下500メートルにひっそりと存在し続ける核廃棄物・・・


こうしてこの映画が示すのは、多くの人々が核廃棄物について誠実かつ責任を持って合理的に考えた結果、辿りついた結論は究極の不誠実と無責任と不合理であるという恐ろしい光景である。


原発の影響はあらゆる立場や地域の違いを超えて及ぶということは、福島の事故が現在進行形で示しているとおりである。ならば、現在議論されている原発再開をめぐっては、電力会社だけでなく、そして国および地方自治体だけでなく、さらには地元住民だけでもなく、多くの人々に議論の場に加わる機会が保証されなければならないし、そのための情報が知らされなければならない。そしていったん再開された途端、ドアが閉められるということがあってもならない。コミュニケーションをしないことは、コミュニケーションのリスクをなくす方法であるどころか、それ自体がリスクである。




映画の公式HP
http://www.uplink.co.jp/100000/

Denkikan(映画館)
http://www.denkikan.com/index_pc.html

クラフトワーク放射能」(映画中でも使用)