『社会学ベーシックス10 日本の社会と文化』

Yumat2010-09-16

社会学ベーシックス10 日本の社会と文化』(世界思想社)が発刊されました。この中で、第10章「『近代』の知識社会学 柄谷行人日本近代文学の起源』」を担当執筆しました。この原稿の校正をしていたのが2007年、パリに住んでいた頃だったので、3年越しで、ようやく日の目を見ることができました。


日本の社会と文化 (社会学ベーシックス10)

日本の社会と文化 (社会学ベーシックス10)


社会学ベーシックス』は社会学の古典的・代表的文献のガイドブックのシリーズ本(全10冊)です。なぜ柄谷行人氏の本が社会学のガイド本の中に?という疑問を持つ人もいるかもしれません。この本の社会学的な意義や読解可能性については拙稿を読んでいただければと思うので、ここでは少し別のことを。


社会学という学問には、関連領域の成果を貪欲に取りこんで、自家薬籠中のものとしてゆく雑種性があります。実際、本書で取りあげられている文献の著者たちも、職業的に社会学者と呼べる人たちはむしろ少数で、政治学者や民俗学者、人類学者に心理学者、あるいはジャーナリストや批評家など、それ以外の分野の人のほうが多くなっています。正確に数えていませんが、同シリーズの他の巻をざっと見たかぎりでは、執筆者に占める職業的社会学者の占有率は、もっとも低いようです。


これだけを見ると、日本の社会学者は自分が生きている社会について、重要な研究業績をあまり残してこなかったように見えます。しかし、この点についてはもう少し考慮すべきことがあります。


一般的に社会学では日本人論や日本文化論は“取扱注意”の分野とされる傾向があります。日本社会における人々の行動パターンやその社会のなかで生じる現象を研究している社会学者はたくさんいますが、それらの行動や現象を説明するときに、日本人や日本文化に固有の特殊な何か、永遠不変の国民性や文化的アイデンティティのようなものによって説明する研究は、まずうさん臭い目で見られます。そういった説明は、説明される現象にたいして社会的・歴史的な諸要因が影響を及ぼす可能性をすべて無視するからです。


社会学は、まさにその社会的・歴史的な諸要因から行動パターンなり社会現象なりを説明しようとします。そして考慮すべき社会的・歴史的な諸要因(説明変数)は、対象が複雑になり、扱いうるデータや資料が増えるにつれ、複雑になってゆきます。


だから、日本のとある農村の生活構造を研究したり、日本のとある学校の教師―生徒関係を研究したり、日本のとある街のサブカルチャーを研究しても、そこに特徴的に見られる現象をいきなり日本人や日本文化の不変的特性から説明するようなことはしません。それらの研究は、あくまで農村や学校、街についての研究であり、日本社会全体についての研究にはなりにくい。つまり、多くの日本の社会学者たちが日本社会(の一面)をフィールドとして研究をしているけれども、そのアウトプットは「日本社会論」として提示されることは少ないということです。


それにたいして外国の研究者や、日本の研究者でも外国を強く意識した場合は、「日本社会とはどのような社会か」という問いから研究が始まる場合が多いので、研究をつうじて見出された特徴的な現象は日本人あるいは日本社会の特徴として一般化して解釈され、アウトプットは「日本社会論」として提示される傾向があります。


社会学ベーシックス10 日本の社会と文化』に、社会学者の業績が少ない理由(の、少なくとも一つ)は、ここにあるように思われます。


これらは研究の観点、あるいは説明の水準の違いなので、ア・プリオリにどちらかが正しくてどちらかが間違っているというわけではありません。しかし、近年の日本の社会学では、日本社会論として、あえて大きな風呂敷を拡げるような研究は、少なかったように見えます。


日本のなかにいると、この社会はすでに高度に近代化(≒西洋化)して、古い日本的特殊性などもはやなく、国内の現象は普遍的な観点から説明できるように思えますが、たとえばヨーロッパに行くと、日本は西洋とは異なる社会と認識されているということをいろんな機会に感じさせられて、その認識はトンチンカンな場合もあるし、当たっている場合もあるし、こちらが気づかず、なるほどと思わされる場合もありますが、いずれにせよ、日本の社会学者がその社会に生じる現象を、その社会の文脈を知らない人が理解可能なかたちで説明するということを、これまで十分にはやってこなかったということは、率直に認めなければならないかもしれません。


日本社会の中で生じる個別の現象を研究するとき、その研究の読者を国内に想定していれば、その研究を「日本社会論」として提示する必要はなく、農村や学校やサブカルチャーなど個別領域についての研究として十分に成立します。それに、現実を知れば知るほど個別性や多様性が見えてきて、安易に一般化などしにくくなるという面もあります(「一口に日本の農村と言っても地域によって違う」…)。しかし個別性や多様性を重視するだけだと、究極的には人間は一人ひとり違うということになって、「社会」という次元で意味のあることは何も言えなくなるし、日本社会という文脈を共有していない人には、その説明は理解困難でしょう。


ある種の日本人論(やオリエンタリズム)のように不変的な特殊性によって説明するのではなく、かといって個別の研究で終わるのではなく、適切な媒介変数を挟みながら個別研究を一般化してゆき、普遍的に理解可能な日本社会論として展開することを、(自分も含めて)もっと試みていかなければならないように思います。本書がまさにそのためのブックガイドとなることが、執筆者諸先生の末席を汚した者としての、ささやかな希望です。