街並みの美について:倉敷の場合

Yumat2009-10-19

土曜日、岡山県立大学で行われた日仏社会学会のシンポジウム「パースペクティヴとしての<力>―暴力・労働・贈与」で報告をしてきました(「フランス都市暴動における暴力の諸相」http://wwwsoc.nii.ac.jp/sjfs/gakkai.htm)。


テーマ限定の小規模な学会というのは初めての参加でしたが、他の参加者と話が比較的かみ合いやすく、充実した時間を過ごすことができました。とはいえ、自分も含め、パネリストが少し喋りすぎて、フロアの方々からの質問の時間がなくなってしまったのは申し訳なかったです。


せっかく岡山まで来たので、日曜日は倉敷へ。美観地区は、評判に違わず雰囲気のある景観が維持されていて、しかも今回は「屏風祭」というイベントを開催中で、阿智神社近くの道路沿いに、屏風を所有している民家がその期間中、自宅の一室を公開して屏風を公開するという催しが行われていました。この辺りの家も町屋スタイルでかなり統一されていて、景観保存エリアがけっこう広い範囲に及ぶことがわかりました。これだけ広い範囲の景観を保存するというのはさぞ難しいことだろうと思います。それを実現する倉敷の人々の努力は素晴らしい。素晴らしいということを十分に認めたうえで、あえて言わせてもらうと、この通りの電線は何とかならないものでしょうか。通りの上に何本もの電線が密集していて、しかも通りの幅が狭いだけに、上空がほとんど電線で覆われているような気がします。美観地区の中心部は電線を地中化してありますが、その範囲をこの辺りまで少しずつ拡大していけば、この美観地区は、真にその名に値するものになるように思います。



あと、大原美術館の、それほど広くない敷地の中に自動販売機が三つも置いてあるのも疑問です。中島義道氏も『醜い日本の私』などで主張していることですが、こういう電線や自動販売機、仰々しい看板などをそのままにしておいて「美観」を語ることはできません。


醜い日本の私 (新潮選書)

醜い日本の私 (新潮選書)


もちろん、電線や看板が雑然と街を埋め尽くす街並みに街の活気を見るという感性もあるかもしれません。商店街や出店の賑やかな光景に愛着を抱く人もいるように。これは論理的・道徳的な「正しさ」の問題というよりも多分に感性の問題なので、どちらが良いかということの判断がむつかしいところもありますが、しかし、倉敷が目指しているのが商店街的・出店的方向でないことはたしかでしょう。であれば、やはり電線や自動販売機にもこだわってほしいと思うわけです。