壱岐探訪

先日、同僚のシンジルトさんが担当する調査実習に乗っかり、壱岐を訪れました。調査に汗水流す学生たちを尻目に、この歴史と自然の詰まった小さな島を数日かけて堪能しました。


まず特筆すべきは牧崎の「鬼の足跡」。半島の先端に海水の浸食によって空洞ができた様子が鬼の足跡に見立てられたものですが、その奇抜な自然の造形の価値をいっそう高めているのは、まわりの風景です。辺り一帯には、かつては牛を放牧していたという草原が拡がり、それが半島の突端で唐突に断崖へと変わる光景は壮観と言う他ありません。一歩足を滑らせれば数十メートル下の岩に体を打ちつけかねないですが、しかしこの辺りには、立ち入りを制限する柵や「危険!」などと書かれた看板は一切ありません。馬鹿げた柵や看板で風景を台無しにするのが日本の観光地の常ですが、ここにはそんな余計なお節介はまったくなく、それによって圧倒的な風景のダイナミズムが保たれています。






壱岐は二度、日本の歴史の中に出てきます。一度目は、『魏志倭人伝』中の「一支国」として。一支国の都と見なされているのが「原の辻(はるのつじ)遺跡」。ここは現在の壱岐市が一大観光資源と位置づけ、当時の集落を再現する工事が行われていました。たしかに、まわりに近代的な建物があまりなく、見る角度によっては、本格的な古代的風景を体感することができます。たまたまここを訪れたときに快晴になり、ゆっくりと座り込んだら、そこには時計の時間とは異なる、のどかな古代的時間が流れていました。この遺跡の観光的価値は、「点」としての個々の遺跡にではなく、「面」としての風景に、つまり古代的な時間と空間を全体的に体感できるところにあるでしょう。今後しばらく、観光地としての整備工事が続けられていくようですが、ぜひともこのあたり一帯の電線を地中化し、近代的な建物や自動販売機などを置かないようにしてもらいたいものです。




壱岐が二度目に日本の歴史に登場するのは、元寇のとき。凄惨な歴史の残るこの島には、戦跡や、死者たちの慰霊や記憶、記念のための碑や塚、神社などが数多くあります。神社などを丹念にまわっていると、この戦いで元軍に抵抗した武将たちが、明治以降、とりわけ太平洋戦争中に軍神に祀り上げられてゆく様子が垣間見えてきました。明治以降の日本が近代国家を建設してゆくなかで、壱岐は国防上の要衝として位置づけられ、元寇は日本の歴史的トラウマとして遡及的に意味づけ直されたのかもしれません。過去の記憶は現在の観点から事後的に再構成されるという、記憶の社会学的研究がさまざまに論じてきた命題の一例を、ここに見ることができるようです。





壱岐の海には、さまざまな色があり、それがさまざまな海の表情を作り出しています。深い群青やかすんだ白色の、愁いを帯びた海。艶やかなエメラルドグリーンが切り立った崖を取り囲む、どこかしら神秘的な海。軽やかな光のきらめく透明感のある海。さまざまに異なる表情を見せながら、それらはいずれも同じ一つの海の諸相です。壱岐の海は、“多にして一”という海の本来的な性質を、このわずかな範囲に凝縮して示しています。






ともあれ、気ままな旅を堪能できたのも、島の人たちの歓待があったからこそ。役場の方々や国民宿舎の方々をはじめとして、多くの方にお世話になりました。その方々の名前や顔をここで出すことは差し控えますが、通りの猫たちが人を見てもまったく逃げる気配がないという事実が、この島の人たちの優しさ、暮らしのどかさを雄弁に物語ってくれるはずです。