アヤーン・ヒルシ・アリのこと

Yumat2008-02-11

昨日は高等師範学校(エコール・ノルマル・スペリウール)にアヤーン・ヒルシ・アリが来るというので足を運んだのですが、20時の開始時間前に着いたにもかかわらず、すでに会場前の道路には長蛇の列。「待つのは結構ですが、もう会場には席はありませんよ」という係員のアナウンスにもかかわらず、多くの人がしばらく待ち続けましたが、結局入れず、それでも途中から席が空いて入れることを期待した20〜30人ほどが、入り口前で2時間半以上、ひたすら待ち続けましたが、やはり入れずじまい。相当な厳重な警戒態勢で、入り口の前や道路の端々にも何人もの警官がいて、それら諸々のことが、アヤーン・ヒルシ・アリという女性のおかれた現状を雄弁に語っていました。


2004年にゴッホの親族にあたるオランダ人映画監督が、イスラム教の女性差別を批判する映画『服従』をつくり、イスラム原理主義の若者に殺されたというニュースは日本でも報道されたので記憶している人も多いと思いますが、そのとき彼と一緒に殺害宣告を受けていた女性がいました。それが『服従』の原作者、アヤーン・ヒルシ・アリです。


1969年、ソマリアに生まれた彼女は1992年に政治難民としてオランダに入国、1997年にオランダ国籍取得。2002年から右派の自由民主党(VVD)の議員をしていました。その後、『服従』の監督テオ・ファン・ゴッホが殺害され、彼女には政府が24時間体制の警備をつけたのですが、2006年、彼女が亡命申請した書類の中に虚偽申告があることがメディアで報道され、彼女もそれを認めたことから、国籍剥奪が取り沙汰されました。結局国籍は維持できることになりましたが、彼女は議員辞職して渡米し、ネオコン系のシンクタンクアメリカン・エンタープライズ・インスティテュート」に迎えられました。しかしオランダ政府は、国外での警護の費用までは支払わず、アメリカ側は一民間人の警護はしないと彼女に伝えたため、安全確保が困難になった彼女はフランスに来てフランス国籍取得を目指すことになりました。昨日のイベントは、その支援集会だったわけです。


この手引きをしたのが、ベルナール・アンリ・レヴィ(通称“BHL”)。ヒルシ・アリと彼は、『シャーリー・エブド』編集長のフィリップ・ヴァルや、その他12人の連名で、2006年にイスラム原理主義を批判し、人権を擁護する宣言を『シャーリー・エブド』紙上に発表したことなどもあり、以前から親交があったのですが、彼は、サルコジ大統領が大統領選の演説中に、「世界中の苦しめられている女性たち一人ひとりに、フランスはあなたたちを保護し、フランス人になる可能性を与えると言いたい」と言ったことを引き合いに出し、政府に国籍要求するよう、ヒルシ・アリにアドヴァイスしたのです。現内閣には彼女の知り合いでもあるラマ・ヤド人権問題担当閣外大臣(彼女自身、セネガル系女性)がいますが、政府は昨日の段階では、まだラマ・ヤド名で彼女への「支持」のメッセージを送っただけで、国籍取得については明言していません。


今日(2月11日)のルモンドの記事によれば、本当は彼女はやはりアメリカに住みたいようです。オランダ以外でも、いまやヨーロッパではイスラム教について自由に語るのは不可能になっているからとのこと。イスラム教にかんする問題が、自国へのテロ事件などを除けばおおむね「国際問題」であるアメリカと違い、国内に多くのイスラム教徒を抱えるヨーロッパ諸国では、イスラム教がデリケートな問題であり続けているのはたしかです。昨日もそのことを感じさせる、ちょっとしたエピソードがありました。


講演開始からかなり時間が経った頃、自らアルジェリア系と語る一人の女性が出てきて猛烈な勢いでまくし立て始めました。最初、アリ氏の話に怒っているのかと思ったら――イスラム教徒の女性全てが彼女を支持しているわけではないので――、むしろその逆で、フロアのなかでアリ氏を批判する人がいて、それにたいして大声で怒っていて、自分もアルジェリアで宗教者たちからどんな危険な目に遭わされたか、ということを猛烈な勢いで語っていました。しばらく彼女の“演説”が続いた後、一人の警官が彼女のほうに歩み寄り、丁寧な物腰で「マダム、こちらへ来てちょっとお話させていただけませんか」と言って、集団の輪から2、3メートル離れたところに彼女を連れて行き、二人でなにやら話をしていました。警官は若いアラブ系の青年だったので、おそらくその他の人々は、彼が単純に講演の内容がどういうものかを聞きたかったのだろうと思ったことでしょう。しかしものの5分もしないうちに、二人は罵り合って別れ別れになりました。集団のなかに戻ってきた彼女の話によれば、警官はムスリムで、彼女に「イスラム教嫌い」(イスラモフォビー)の意見を撒き散らすのをやめるよう言い、それが彼女には越権行為と映ったのか、直に感情のぶつけ合いになってしまったようです。人種や宗教が絡んだ、ちょっとした言い争いというのは、パリではよく遭遇する光景なのですが、今回は警官が一方の当事者だった点で、今まで見たことのないケースでした。


また別のグループでは一人の白人男性が、南アフリカを旅行したとき、あちこちにモスクが出来ていた、今やアフリカの旧カトリック圏が次々にイスラム化している、ということをとうとうと語っていました。アフリカのカトリックだって、大部分は植民地主義を背景としたカトリック化の結果だろうと思いつつ、フランス世論のアヤーン・ヒルシ・アリへの支援の動きのなかに、人権の理念に依拠するものと、イスラム教嫌いの感情に由来するものとがない交ぜになっていることを実感しました。


ヨーロッパとイスラム教との、あるいは文明間の共存を可能にする条件とは何かを問うために、アヤーン・ヒルシ・アリの言説と、それが引き起こした一連の事態について、包括的に分析してみる必要があるようです。