ジダンの頭突き事件、その後

  20日、ようやくジダンマテラッツィに処分が下された。ジダンには7500スイスフランと三日間の社会奉仕活動(三試合の出場停止の代替処分)、マテラッツィには5000スイスフランと二試合の出場停止とのこと。この両者への処分に関してはいろいろ意見があるようだけど、おおむね妥当な結果のようにも思う。どんな事情があるにせよ、暴力を行使した方が重い処分を受けるのは当然だし、他方、侮辱発言をした方もその責任を負うべきだから。もしも今回のマテラッツィの侮辱発言に制裁を下すのなら、今まであった無数の侮辱発言にはどうして同じようにしなかったのか、今後、侮辱発言が起こった場合にそれを同じように裁けるのか、審判への侮辱はともかく、選手間の侮辱発言をどのように証明するのか、等々の懸念もあるようだけれど、しかし逆に、今回マテラッツィに何の制裁もなければ、事実上、FIFAが侮辱発言を容認したことになってしまうので、それはできなかっただろう。


  ところで、今回の侮辱発言の内容は、事情聴取の後も明らかにされなかった。だから「テロリスト」発言があったかなかったか、真相は謎のまま。実際になかったのかもしれないし、本当はあったけど、FIFAがこれ以上の混乱を恐れて明らかにしなかったのかもしれない。個人的にはあったのではないかという気が、未だぬぐえない。でないと、母親や姉への侮辱発言のほうは、イタリア・リーグではよくある類のものと言われているし、ユベントスで長年プレーしていて、そのことを知らないはずがないジダンが、それだけであのような反応に至るとは考えにくいからだ。
  しかし、証拠がなく、これからも出てくる見込みがない以上、もはやこの点について詮索するのはあまり意味がないかもしれない。
  ただ、実際に「テロリスト」発言があったかどうかはともかく、「あったのか?」という点に世界中の人びとが関心を抱くことによって、現代サッカーを取り巻く一つの社会的次元ーー人種差別ーーに、世界の豆が向けられたのは確かだ。この頭突き事件によって、ジダンは有終の美を飾るどころか逆に晩節を汚した、という受け止め方が一般的にはなされているようだけれども、この事件があったからこそ、サッカーが含み持つ社会的次元に世界中の人びとの目が向けられたとも言えるのではないだろうか。そういった次元は、サッカーを“純粋に”楽しむ上で必ずしも必要ではない、というより邪魔になるので、普段は意識されることが少ないし、メディアやサッカー関係者もそういった面にはあまり深入りしない。
  しかし、スーパーヒーローたちのスーパープレーが繰り広げられるスペクタルの背後には、それを成り立たせるためのさまざまな社会的現実がある。もしもジダンが頭突きをせず、スーパーヒーローとして普通に有終の美を飾っていたら、彼はサッカー史のスター列伝の一ページに普通に収まるだけで終わっていただろう。それよりも、サッカーをスペクタルとして“純粋に”楽しもうとし、それ以外の次元を見ないようにさせるさまざまな力を一瞬たりとも撹乱し、サッカー界に潜む問題に一瞬たりとも目を向けさせた今回の終わり方のほうが、意義深いと言えるかもしれない。
  もちろんだからと言って、ジダンの暴力行為が正当化されるわけでは決してない。この頭突き事件も、あるいは頭に血の上りやすいジダンが瞬間的にカッとなって起した事件というだけなのかもしれない(事実、ジダンはこれまでにも何度か試合中に相手選手を殴ったり蹴ったりしている)。けれども、この出来事それ自体は、本人の動機やパーソナリティを超えて、もっぱらスペクタルとして享受される現代サッカーを一瞬撹乱することになった。そこにこの出来事の社会学的な面白さがある。