ワールドカップ雑感

Yumat2006-07-10

  ようやくワールドカップが終わった。ここ一ヶ月、深夜をずいぶん試合観戦に費やして、仕事にも支障が出かねないくらいになってきていたので、正直ちょっとほっとしたところもある。
  でも昨日のジダンは残念だった。こんな不世出の選手の最終試合がこんなかたちで終わってしまうとは。ブラジル戦での神がかったプレーで、コンディションさえ良ければ、彼が今なお超一流選手であることを証明し、準決勝のポルトガル戦はまぁまぁだったけれども、決勝戦ではブラジル戦ほどではないにせよ、タレント揃いのイタリア相手に“高齢者軍団”のフランスが優位にゲームを進めることができていたのは、間違いなくジダンがゲームをコントロールしていたから。それだけに、あんな闘牛みたいな頭突きで終わるというのはもったいなすぎる。
  なぜジダンは頭突きをしたのだろう? VTRを見ると、頭突きの直前、マテラッツィが両手で後ろからジダンを抱え込むようにしてディフェンスしている場面が映し出されていた。この映像からは、密着マークを受けて思うようにプレーできず、イライラを募らせていたジダンがファウルすれすれのマテラッツィのディフェンスに怒ったように見えた。しかし今日のヤフー・ニュースを見ると、少し違う事情があった可能性もあるようだ。イギリスの『ガーディアン』は、この頭突きはマテラッツィが彼を「テロリスト」呼ばわりしたことにジダンが激昂した、と伝えているという。この情報にどこまで信憑性があるのか分からないけど、最近のヨーロッパの試合でアフリカ系の選手にたいする人種差別的なヤジが飛び交うことが問題となっているだけに、ありえる話に思える。


  ジダンアルジェリア系移民二世であるのはよく知られている。アルジェリアでは92年から内戦で何万人もの人が亡くなった。また、フランスのアルジェリア系移民のなかに、イスラム原理主義勢力とつながりのある人がごく一部いるのも確かである。もしもマテラッツィジダンを「テロリスト」と呼んだのが本当だとしたら、このあたりのことを踏まえての発言ということになるわけだが、しかしフランスに住むアルジェリア系移民のほとんどはテロリズムとは何の関係もないし、ましてジダンはそうである。そもそも彼はアルジェリア系といっても、アラブ人ではなく、アルジェリアカビール地方(かつてブルデューがフィールドワークした地域)に住む先住民族ベルベル人の血を継いでいる。
  ジダンの他にもフランス・チームには移民や移民二世が多い。主力選手だけに限っても、アンリはマルティニークヴィエラセネガルテュラムグアドループと、多くがフランスの旧植民地からの移民あるいはその二世である。他にもアルゼンチン出身トレゼゲコンゴ出身のマケレレなど、植民地以外の地域からの移民のケースもある。
  98年のフランス大会でフランス・チームが優勝したときは、“black, blanc, beur”(黒人、白人、アラブ人)というスローガンのもと、この多様な出自のナショナル・チームが、多文化を包摂するフランス社会の力強さの象徴のように語られた。白人、黒人、アラブ人が混じりあって、通りで、店で、優勝を喜ぶ光景が見られた。
  しかしそのような熱気は間もなく冷めてしまった。98年の優勝以降、とくに移民にたいする寛容さが増したとはいえない。むしろその逆と言ってもいいくらいだ。そのことを知っているのは、当の移民二世・三世たち。7月8日のルモンドの記事に、今回のフランスチームの躍進に対する移民の若者たちの声が載っていた。「僕たち移民は、ワールドカップに勝ってる間はフランス人だけど、15日後にはもうフランス人じゃなくなるんだ」。代表チームの準優勝によって、フランス国民が一体となって盛り上がったけど、この一体感はあくまで非日常的な“お祭り”がもたらしたものであって、長くは続かないことを、彼らはすでに予感している。多民族からなる代表チームがワールドカップで勝ち上がったからといって、多民族共生がただちに実現・促進されるほど世の中甘くはない、という醒めた認識が、彼らにはある。
  けれども、移民の子どもたちにとって、ジダンや代表選手たちの数々の栄光は、彼が引退してからも記憶され続けることだろう。それは、郊外の絶望的な状況で暮らす彼らにとって希望の光であり、そのような希望を与えた点で、ジダンおよび代表選手たちの及ぼす影響は小さくない。


  それにしても、世界各国の代表チームを見渡してみて、移民・外国人と労働者階級出身の選手が多いことにあらためて気づく。もともとサッカーは労働者階級のスポーツだけれども、それに加えて近年では、フランス・チームに限らず、移民・外国人の増加が目立つ。社会の周辺で育ってきた彼らにとって、サッカーこそが成功の唯一のチャンスをもたらしてくれるものであり、サッカーこそが貧しい生活やつらい日常から解放してくれるものだったのかもしれない。まさに、サッカーこそが夢であり、希望であったのだ。そしてその夢や希望の背後には、絶望に満ちた日常が横たわっている。
  そう考えると、今回の日本代表チームの惨敗ぶりは、日本の豊かさの現われなのか、とも思えてくる。一億総中流で、それほど大きな格差のない社会で、成功のチャンスも、貧しさやつらさから解放される手段もサッカー以外にたくさんある。別にサッカーでなければならない必然性はないのだ。もちろん日本人選手にとっても、サッカーは夢であり希望である。けれども、その裏側に絶望的な日常があるわけではない。
  だから今後、日本代表を強くするために必要なのは、日本の社会的格差をどんどん拡大して、サッカーにしか夢を抱けず、希望を見出せない人々をたくさんつくり出すことなのだ。
  などというつまらない法螺話はここら辺りで止めるとして、現代サッカーは単純にスポーツとしての面白さもさることながら、ナショナリズム、移民・外国人、人種差別、社会的格差などの問題が絡む現代世界の一縮図としても、一社会学者を惹きつけて止まない、ということが言いたかったのです。