福岡アジア映画祭と『わたしの葬送日記』

Yumat2006-07-08

  今日は福岡アジア映画祭に行ってきました。九州の映画祭としては湯布院映画祭が全国的に有名だけど、この福岡アジア映画祭も、アジア映画に焦点を絞った個性的な映画祭として以前から知っていたので、一度行きたいと思っていました。
  この映画祭は今年で20回目を数えます。最近の福岡はいろんな形でアジアとのつながりを強調しているけれど(福岡アジア美術館九州国立博物館、オリンピック誘致など)、この映画祭はそういうアジア・ブームが始まる前から一貫してアジア映画を対象として、しかも行政のサポートを受けず、有志の努力だけでここまで続いてきたのだから、大したものです。どういう理由で行政のサポートが無いのかは分かりませんが、こういうイベントこそ、それを受けるに値するものと思います。
  今日はドキュメンタリー作品の日で、会場は日仏学館のホール。1作品を見ただけですが、30席ほどの椅子に観客は15人くらいと、少なめでした。来週末は一般劇場作品が上映されるので、もう少し多くの人が来るのだろうけど。
  見たのは『わたしの葬送日記』という日本の作品。松原惇子というエッセイストのお父様が亡くなったときの葬式の顛末を、映像関係の仕事をしている彼女の弟が密着撮影するという内容でした。こういう家族の内幕暴露的な話を身内がカメラで追ったドキュメンタリーというと、ひきこもりの兄について、弟が撮った『home』という作品を思い出します。この映画は、多くの人にとってほとんど謎のままであった引きこもりの生活実態を赤裸々に映し出すという内容はもちろん、映像の撮り方についても、人を惹きつける強烈な力を持っていました。ひきこもりの兄の母親にたいする暴力(主に言葉による)がエスカレートするに及び、それまではぎりぎりのところで撮影者の位置にとどまっていた弟が二人の間に介入してゆく過程が実に劇的で、このような関係性の変化そのものを映し出しているところに、この作品の素晴らしさがあったと思います。
  今回の『わたしの葬送日記』は、たしかに内容的に面白い部分もたくさんありました。人が死ぬということが、こんなにお金がかかるものだということについては正直全く知らなかったので、その辺りの話については惹きつけられました。戒名に位があり、位に応じて値段が違うこと、坊さんが提示した戒名の金額が300万円(!)もするという話にはひそかに仰天しました(それにしてもこの坊さん、どっかの俳優かと思わせるくらい、キャラだってたなぁ)。
  でも、こういう実社会のリアルな知識を提供してくれる以上の、真に迫ってくるような何かがこの作品にあったかというと、やや疑問です。内幕暴露的な話が、そのような次元を超えて、たしかにこのような形でしか伝えられない何かがあったのだと思わせる力は、率直に言って無かったように思います。それは、どこかこの作品に打算が感じられたからかもしれません。内幕暴露で一山儲けよう、とまでは思ってなかったでしょうが、この葬式の顛末が映画として格好のネタになる、という打算はあったように感じました。
  もちろん、『home』も最初は打算で作られたでしょう。なにせこの作品が生まれたきっかけは、当時大学で映像を学んでいた弟=監督が、卒業制作のために実家を素材に撮ろうと決めたことだというのだから、それは打算以外の何ものでもない。けれども、さっきも言ったとおり、映像を撮るうちに対象(弟と母親)に引きずり込まれ、自分自身がその対象の一部となっていく過程、当初の打算を越えて制御しがたい力に巻き込まれてゆく過程が描かれているのが、この作品の面白いところです。
  対照的に、今日見た映画には、最後までそのような打算が感じられました。それは松原惇子氏がカメラ慣れ・しゃべり慣れしているせいもあるでしょうし、弟氏の撮影がそこに介入してそれを突き崩してしまいかねないような尋常ならざる展開がなかったせいもあるでしょう(その割には撮影と編集が雑だったけど)。松原氏が行なっている「個を生きる女性たちのためのネットワーク」の活動が作品の最初と最後に出てくるのも、ちょっと宣伝臭さが感じられました。
  自分のプライヴェートをここまでさらすのは誰にでも出来ることではないし、その徹底ぶりは大したものだけれども、作品が見る者に感動を惹き起こすためには、内幕暴露だけでは十分ではないのです。