ニューカレドニアへの旅

  今日は研究室で夜遅くまで仕事をしていたら夜中に大雨が降り始め、帰れなくなりそうでした。一時的に小降りになった頃を見計らって帰宅したけど、案の定、テレビをつけたら大雨洪水警報が出ていました。それにしても最近の熊本での雨の降り方は凄まじい。空の床が抜けて、溜められていた雨が一挙に落ちてくるような、そんな降りかたをします。
  自宅に帰ると、旅行会社から8月に行くニューカレドニア旅行関係の書類が来てました。ニューカレドニアに行くと人に言うと、異口同音に「良いですねー」という言葉が返ってくる。そりゃまぁ日本人にとってニューカレドニアのイメージといえばほぼ100%『天国に一番近い島』の舞台となったリゾート地、といったものだろうから、それも無理からぬことだけど、今回は観光で行くわけではありません。
  友人の写真家、Tさんが企画し、独力で開催までこぎつけたニューカレドニア・チバウ文化センターでの展覧会に参加し、日系移民のゆかりの場所を訪問したり、日系人との交流会を行なったりするんです。個人的にはその合間をぬってインタビューも行なう予定です。
  そう、今回の旅のテーマはニューカレドニアの日系移民の痕跡を辿り、記憶を掘り起こすこと。
  1892(明治25)年から1919(大正8)年まで、6,000人弱の日本人が彼の地へ渡り、ニッケル鉱山の契約労働者として働きました。ここ熊本は、その最大の送り出し県でした。
  でもそのことは、殆ど全く知られていません。かつて移民を送り出した家の人たちでさえ、そのことを知らなかったりするくらいです。Tさんに同行して調査をしながらそのことに気づかされたのですが、この徹底した忘却ぶりには面喰らいました。後ろめたいこととして隠されているというよりは、去るもの追わず、out of sight, out of mindという感じで、端的に忘れ去られているように見えました。
  熊本は全国有数の移民送り出し県であったにもかかわらず、その歴史を体系的に保存する施設はありません(まだ僕が知らないだけかもしれないけど)。たとえば同じ代表的な移民送り出し県である沖縄県には琉球大学に移民研究センターがあり、広島県山口県にはハワイ移民資料館があるのと較べると、そういった移民関係資料の集積機関がないのは残念です。
  移民した人たち、そしてその近親者たちにはさまざまな物語があり、そういった一つ一つの物語に耳を傾けているうちに、明治以降の日本の歴史がずいぶんと違った風に見えてきます。現在、国際化・グローバル化といったことが言われるとき、多くの場合は外国から来る人たちとどのように付き合うか、といったふうに論じられています。もちろんそれは大事なことのだけれども、時としてその種の議論の根底に、共同体が“異人”をどのように受け入れるか、という類の発想が感じられることがあります。
  明治から高度経済成長の前までの百年間、多くの日本人が、異国の地に向かい、“異人”として遇され、その中で異文化を生き抜いたことに思い至るならば、国際化・グローバル化の問題を、“内なる日本人”と“外なる外国人”との交流という、一見正論のように見えて、その実固定した二分法の枠に閉じ込められた発想から少しは自由になって考えることができるのではないでしょうか。日本人の移民の歴史を掘り起こしてゆくことで、国際化・グローバル化を“外からやってくるもの”としてではなく、“内から行なうもの”として、内発的に捉えることが多少なりともできるようになるのではないでしょうか。日系移民の歴史を知ることは、個々人のルーツ探しを超えて、日本社会全体にとってそんな意義を持っているように思います。
  それにしてもTさん、恐ろしく行動的な人です。一人でここまで企画し、実現にこぎつけるんだから。その行動力には脱帽です。

   http://www.feu-nos-peres.org/first_j.html