家裁調査官の試験

  家庭裁判所調査官という仕事があります。家庭裁判所の職員で、裁判官が審判を行なうのに必要な調査を行なうのが仕事です。これ、大学で社会学を学んだことが活かせる専門職の一つで、うちの学生の何人かが、目指しています。
  この前一次試験があって、専門科目の問題を見せてもらったら、授業(「社会学概論」)で取りあげていることばかりでビックリ。ウェーバーの官僚制の特徴とか、デュルケムとマートンとでのアノミーの違いとか、「想像の共同体」や「文化資本」といった概念の説明とか。うーん我ながらけっこう役に立つ授業をしているんだな。
  試験を受けた学生たちはてっきり僕が作問したのかと思ったらしいけど、僕ではありません,はい。でも多分、作問した人の年齢がだいぶ若返ったんじゃないんでしょうか。
  専門職用の社会学の問題(公務員試験の問題とか)って、誰がどんなふうにを作っているのか、皆目見当がつかないけど、この手の試験ではウェーバーやデュルケムやマートンなどの古典理論が長らく定番でした。だいたい取りあげられる“最新の”理論がマートンだったりして、あたかも社会学の歴史がそこで止まってしまったかのようでした。たぶん作問する人がこの世代の人(若かりし頃、機能主義を一生懸命勉強しただろう今の60代以上)だからなんでしょうか? 今回、「想像の共同体」や「文化資本」が出題されたり、公務員試験でももう少し新しい理論も取り上げられるようになってきたみたいで、全体的にもっと若い世代の人が作問するようになってきたということなのではないかと、推測するわけです。
  でもだからといって、個人的に古典理論を軽視しているわけでは決してありません。むしろその逆です。概論でもウェーバーとデュルケムはかなり丁寧にやってるし、それ以外の古典理論も、できるかぎりいろんな機会に取りあげようとしています。
  文系の学問というのは、たえず過去に立ち戻りながら前に進むというプロセスを辿るもの。昔、イギリスの哲学者、ホワイトヘッドが「その創始者のことを忘れられない科学は、だめである」と言いましたが、文系の学問ではむしろ逆に、「その創始者のことを忘れてしまった科学は、だめである」とさえ、言えると思うんです。(このフレーズも、すでに誰かが言ったように思うけど、誰だったか思い出せない…言った人、名前を引用せずにごめんなさい。)
  あるテクストが偉大なのは、個々の事実関係の解明のためであるよりも、問いの提起の仕方、考えの展開の仕方のためであるものです。新しいかたちで問いを立て、考えることを可能にするテクストこそが、優れたテクストの証です。古典を読むことに意味があるのは、そこに現代においても立ち戻り、考え直すに値する考え方の原型があるからです。
  と、話がだいぶ逸れてきました。家裁調査官という仕事、社会学を志望・専攻する学生たちに必ずしも知られているわけではないみたいです。それ自体としても面白い仕事だと思うし、大学での勉強が活かせるというのも魅力的だと思うので、もっと多くの人に目指してほしいですね。そのためにも、今回受験した学生諸君、2次試験も頑張れ!(って、その前に1次試験受かってるのか!?)