『ノ―・ノー・ボーイ』―これは「日系人文学」ではない
2007/2008年にフランスにいた頃、アラブ世界研究所で開かれた郊外の若者をテーマにしたシンポジウムを聞きに行ったことがあった。パネリストは三人で、そのうちの一人はアラブ系の30代の男性だった。彼は郊外育ちで、若い頃は学校や社会から外れたことをしたが、その後作家を志して小説を出版しており、このシンポジウムには郊外に住む移民系の若者の声を代弁する作家として登壇しているらしかった。パネリストたちの講演後、質疑応答があった。白髪の老人が気難しい顔をして若い作家に尋ねた。「あなたの小説は、社会学的なルポルタージュなのか、それともアートなのか」と。作家がこの問いにどのような答えをしたのか、具体的には覚えていない。けれども、その問い自体に戸惑い、あまりうまく答えられていない様子は記憶に残っている。
老人の問いの含意は明らかだった。つまり、この作家の小説は、さまざまな問題を抱え、つねにメディアや世間から厄介者扱いされる郊外の移民系の若者たちが生きる現実について、同じフランスに住みながら、おそらく死ぬまで一度たりともそのような場所を訪れ、彼らと直に接する機会などないであろう自分のような人間に、実に多くのことを教えてくれる。ドラッグや盗み、暴力などのただ中で生きる若者たちの現実がどのようなものであるかを、理解させてくれる。しかし、アートとしてはどうなのか。郊外の社会的現実の記録としては興味深いけれども、ドラッグや盗みといった風俗描写を抜きにしたとき、そしてまた作者がそのような世界の当事者であったという事実を抜きにしたとき、いったい何が残るのか?要するに、文学作品としては大したことないのではないか、ということを、遠まわしに(しかし言い方自体はかなりはっきりと)言ったわけである。
老人の問いかけはよくわかる。パネリストとなった作家の作品は読んでいないので何とも言えないが、美術館などをまわっていると、社会(学)的なテーマを扱っていて、アクチュアルな問題関心は伝わるけれどもそれだけ、というアート作品を見かけることがあるからである。
この数年前のささやかなエピソードを思い出したのは、「日系人文学」の代表作とされるジョン・オカダの『ノー・ノー・ボーイ』を読んだからだった。
ジョン・オカダは一九二三年にアメリカのシアトルに日本人移民の子として生まれ、一九五七年に『ノー・ノー・ボーイ』を書いた。この小説は、徹頭徹尾、日本人移民とその子どもたちの辿った歴史的経験に依拠している。
第二次世界大戦中、アメリカの日系人が強制収容所に入れられたことはよく知られている。一九四三年、収容所にいた日系人を対象に調査が行われた。調査項目の中に、アメリカに忠誠を誓い、日本への忠誠を放棄するかどうか、また、アメリカ軍に従軍する意思があるかどうかという二つの質問があり、収容されていた日系人たちはイエスかノーかの選択を迫られた。この二つの質問に「ノー」と答えた者は、徴兵拒否の敵性外国人と見なされた。『ノー・ノー・ボーイ』は、この二つの質問に「ノー」と答えた若者が、二年間の刑務所生活を終えて出所したところから始まる。
一世と二世の「日本」および「アメリカ」にたいする思いの違い、日本の敗戦を信じない「勝ち組」の心情、日系人にたいする差別といった定番のテーマはもちろん、同じ家族の中での徴兵にたいする選択の相違と、それにともなう家族内関係の揺らぎ、徴兵拒否者への周囲の風当たりの凄まじさ、徴兵拒否者の苦悩などについて、生々しい描写をつうじて教えてくれる。しかし、『ノー・ノー・ボーイ』は日系アメリカ人についての社会学的ルポルタージュではけっしてないし、通常そうされるように「日系人文学」(の代表作品)として位置づけることさえ、不十分なことである。それはここで描かれた体験が、徹頭徹尾、「日系人」という存在の歴史的特殊性を帯びているにもかかわらず、この社会学的カテゴリーの範囲を超えて、訴えかけるものがあるからである。
たとえば徴兵拒否者への周囲の風当たりの凄まじさの描写は、戦時中の日本の「非国民」が日本の文化的特殊性によるものではないことを示しているし、徴兵拒否者の苦悩はヴェトナム戦争時の徴兵拒否者のそれと通底するだろう。9,11事件時、アメリカでイスラム系住民にたいする偏見と敵視をやめるよう呼びかけたのが日系人だったのは、彼らが類似の体験を持っていたからである。
さらには、そういった類似の体験のない者にも、この体験の重さは伝わってくる。体験を共有しない者にその体験を伝えることを可能にするのは、文章そのものの力である。読者はこの小説を読み進めてゆくうちに、自分の意志によってではなく、文章それ自体の力に引っ張られて、ページをめくってゆくことになる。
『ノー・ノー・ボーイ』は徹頭徹尾、日系人の歴史的経験に根ざしており、それを抜きにしては成り立たない小説でありながら、やはりこれは日系人文学ではない。紛れもない文学である。
- 作者: ジョン・オカダ,中山容
- 出版社/メーカー: 晶文社
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