炭鉱街と雪:釧路の一日

釧路港からの眺め

古びた建造物が繁茂する草木によって覆われたり囲まれている光景は、廃墟の独特の魅力の一つをなしています。古びた建造物は、かつてそこに人びとが存在したことの名残り。無造作に生い茂った草木は、その人びとがもはや存在しないことの証し。その両者が相まって、人々がいなくなってから経過した「時間」の流れを感じさせます。中野美代子氏や谷川渥氏によれば、建造物と植物との並置という構図は中国から日本にもたらされ、松尾芭蕉の『奥の細道』での平泉の記述に見られるような、人間の営為の儚さと悠久の自然の力との対照を意味するものとして、たびたび表現の対象となってきたそうです。


先日、釧路市内を釧路市博物館学芸員の石川さんのご厚意により案内していただいたとき、雪に覆われた炭鉱関連のいくつかの場所を見ながら、建造物と自然の対比ということについて少し思いを巡らしました。


釧路市は、日本で唯一、現在でも稼働している炭鉱がある街なので、廃墟ではありません。しかし、まるで巨人が街の中で体を横たえるかのように存在する巨大炭鉱施設に、古さをまったく感じないと言えば、嘘になります。しかしその少し古びた感じが、街の風景に一種独特の魅力をもたらしてもいます。そう感じたのは、とりわけ雪の積もった晴天の日にこの地を訪れたからかもしれません。悠久の時間を想起させる草木と違い、雪は建造物以上に儚いものだけども、辺り一面を白一色で覆いつくす面的な拡がりにおいて、やはり人間のつくった建造物をはるかに凌駕していて、人間の有限性と自然の力との対照を感じさせます。


ただし、釧路は太平洋側の街であるうえに、天候も良かったせいか雪はそれほど深く降り積もってはいず、さらに、現在でも石炭産業が存在して工場や鉄道が稼働していることもあり、人間の営為の儚さというよりは力強さを感じさせています。もしかしたら、山間部にある夕張炭鉱などでは、もっと深く雪に覆われ、人間の有限性と自然の力という、伝統的な廃墟美の構図が現れるのかもしれません。この日の釧路は、人間と自然とががっぷり四つに組んで拮抗しているような、冬の一日でした。




選炭場


ズリ山


石炭輸送鉄道