パリ最後の夜

Yumat2008-07-31

16ヶ月のパリ滞在も今日が最後の日。あと数時間後にはユーロスターでロンドンへ。荷物をすべて引き払い、いくつかの家具しかない部屋にいると、ある種の喪失感が湧きあがってきて、16ヶ月という限られた時間ながら、すでに自分がこの場所に根を張っていたことを実感させられる。所在無さを紛らわすために賑やかなところに行こうと、夜にサン・ミシェルあたりに行き、観光客相手に似顔絵を描く若者たちや、ブレイクダンスを踊る若者たちと、絵を描かれたり、ダンスを踊る若者を取り巻く観光客たちのあいだを縫うように歩いてみた。ポンピドゥー・センター前でもここサン・ミシェルでも、いつからかこの似顔絵描きを中国人の若者たちがするようになっていたのだけれども、今夜も数人の中国人と思しき若者たちが軽快なタッチで絵を仕上げていた。ブレイクダンスを踊る若者たちのほうにはアフリカ系が多く、それ以外の者が数人加わって全員で10人程度のグループをなしている。夜にこの場所に来るたびに踊っているのを見かけるので、よっぽど頻繁にここで踊っているのだろう。何人かが上半身裸になり、引き締まった肉体を誇示するかのように、黒い肉体に汗を光らせながら踊っている。とても荒削りだけれども、自分で自分のエネルギーを抑えられないかのような激しくアクロバティックな踊りは、洗練とは無縁のインパクトを持っている。


こんなふうに、さまざまな国の人たちが集まってきては行き交い、思い思いに過ごすこと、そんななかに自分もまた一異邦人として紛れ込み、自由の息吹を吸いながら存在することができることが、この場所に暮らす楽しさの一つだった。そんなパリ生活ももうすぐ終わる。もちろん、戻ってきたければ来年にでも戻ってくることはできる。けれども、それはせいぜい一ヶ月以内の滞在だろう。今回のように生活をする機会は、これから先いつあるかわからないし、あるいは二度とないかもしれない。今まで短期ではフランスに何度か来たことがあるけれども、帰るときにこんなふうに名残惜しさを感じたことは一度もなかったし、今回もそんな気分になるとは、帰国の日が迫るまで思ってもいなかった。いつもは観光客が多くていささか鬱陶しい場所にしか感じられなかったサン・ミシェル界隈にこんなふうに名残惜しさを感じてしまうのは、離仏間際という状態になってこれまでの滞在で経てきた時間が押し寄せてきたからなのかもしれない。数週間の滞在と16ヶ月の滞在とのあいだには、たんなる期間の長さという相対的な違いではなく、時間の厚みという絶対的な違いがある。この時間こそは、今回の滞在で得たもっとも貴重なものだ。なぜなら、そこに含まれるさまざまな経験の種の一つ一つを、記憶をつうじて反芻し、言葉にしてゆくことによって、経験として開花させることができるのだから。