ドランシーの生きられる廃墟

Yumat2007-09-26

パリの中心部から北東に約10キロ、電車で10分ほどの郊外にドランシーという街があります。ここには第二次大戦中、ユダヤ人の強制収容所がありました。もともとここには「シテ・ド・ラ・ミュエット」と呼ばれる団地がありました。1931年に建設が開始され、1934年に完成したこの団地は6つの建物からなり、そのうち5つは15階建ての高さで横一列に並び、さらにその横に4階建てのU字型の建物が建っていました。この最後の建物は、そのU字型から「蹄鉄」(Fer à cheval)というあだ名で呼ばれていました。実際にはU字型というよりもカタカナの「コ」の字型ですが、アルファベットで一番近い「U」に見立ててそのように連想されたのでしょう。


1941年8月20日から1944年8月17日まで、この「蹄鉄」が強制収容所として使われました。ここに収容されたユダヤ人のうち、医者や料理人など、“役に立つ”者はここに置かれ、そうでない者はほどなくアウシュヴィッツをはじめとするドイツおよびドイツ領の強制収容所に送られました。だからこの建物は「アウシュヴィッツの待合室」「死の待合室」とも呼ばれました。フランスからドイツに送られたユダヤ人76,000人のうち、67,000人はここから送られ、そのうちフランスに戻ることができた人は2,500人ほどでした。もちろん、栄養状況や衛生状況の悪さから、ここで亡くなった人も多く、詩人のマックス・ジャコブはその一人でした。


長さ400メートル、幅40メートルの庭を内側に挟み、「コ」の字型に建てられたこの「蹄鉄」の一角に「ドランシー強制収容所歴史保存館」があり、ドランシーの強制収容所の歴史を知ることができます。「コ」の字の左側、建物がなく、外部に面しているところにはユダヤ人を輸送したワゴン車が置かれていて、その内部にも同じく歴史のパネル展示があります。しかしこれら二つの場所を合わせても、マレ地区にあるホロコースト記念館などと比べると、お金のかけられ方に圧倒的な落差があるのは否めません。


展示内容に勝るとも劣らず衝撃的なのは、この建物全体、空間自体です。驚くべきことに、15階建ての建物5棟は解体されたのにたいし、「蹄鉄」は現在でも当時のまま存在し、のみならず、団地として実際に使われています。内部には240のアパルトマンがあり、各アパルトマンは二部屋からなっていて、家賃もパリの標準家賃からすれば破格の安さです。


しかしこの空間には、正直、生活の臭いがほとんど無い。これだけ大きな建物であるにもかかわらず、人通りがほとんどなく、もしもいくつかの窓から洗濯物が干してあるのが見えなかったら、ここに人が住んでいるとは思えないほど、この場所はひっそりとしています。ちなみにその洗濯物は貫頭衣型の衣装であったことから、その部屋の住人がアフリカ系であることが容易に見てとれましたが、建物全体でも移民が多く住んでいるようです。今まで、老朽化して生活環境が良くないと言われる郊外の団地を少なからず見てきましたが、この「蹄鉄」に比べれば、ずいぶん新しく、きれいに見えます。色褪せた建物はまるで空気自体が霞んでいるかのような印象を与え、内側にある公園には人は見当たらず、木々が手入れもされず伸び放題になっている。


負の歴史の遺産をどのように保存するかというのは難しい問題だとは思うけれども、この建物のように、現在も使われていることからくる難しさを抱えるところはそう多くはないのではないでしょうか。たとえば廃墟であれば、たとえどんなに朽ちていようとも、あるいは朽ちていればいるほど、そこで過去に起こった悲惨な出来事をまっすぐに想起させ、記憶に定着させることができる。しばしば人々が廃墟に見出す美というのは、その場所で起こった出来事が歴史のなかに刻んだ時間の真正さに由来するものでしょう。その美は、現在と過去とのあいだに然るべき距離があるときに感じられるものです。言わばそれは、過去の喪失を想像力の次元で克服しようとするものだからです。しかし、この建物のように、現在も住居として使われている――しかも、かつてはユダヤ人、現在は移民と、その時代の社会からもっとも忌み嫌われる人々を収容する施設として――と、過去と現在とのあいだの適切な距離がなくなり、だから美が発生する余地もない。この場所の悲劇性は、過去に悲惨な出来事があったこと(のみ)によるのではなく、それが現在の使用のために、記憶の場所としての自律性を持ちえないこと、そのため、廃墟として美的に表象されることによる救済がないこと、に(も)よっているように思われます。“歴史的”建造物であるはずのこの建物が、わずかな保存館や記念碑を申し訳程度の口実にして、日々の生活のなかでひたすら擦り切れていくさまをみて、生きられる廃墟という言葉を思い浮かべたのも事実です。


今回話を伺った歴史保存館のRさんによれば、団地の入り口辺りに新たな記念館ができるそうです。しかし、その記念館ができたあと、この「蹄鉄」はどうなるのでしょうか。