モントルイユとクリニャンクールの蚤の市

Yumat2007-04-16

昨日はモントルイユの蚤の市、今日はクリニャンクールの蚤の市に行ってきました。ちなみにモントルイユはパリの東の郊外、クリニャンクールは北の郊外、先週書いたヴァンヴは南の郊外にあります。


モントルイユの蚤の市は、かなり広い空間に多くの数の店が並び、しかも人が通るスペースがとても狭いので、他の通行人とぶつからずに歩くのも一苦労です。戦後の日本の闇市ってこんな感じだったかも知れないと思わせるものがあります。


売られているものは、ヴァンヴのような骨董品的なガラクタは少ないのですが、別の意味で十分ガラクタと呼ぶに値するものが数多くありました。たとえば車のミラーだけを集めた店。車のミラーなんて、たいてい壊れるとしたら片方だけだし、残った一方に合う型を雑然と積み上げられたミラーの山の中から見つけるのは至難の業だろうと思いつつも、それで堂々と店を構える彼らの態度を見ていると、それはやはり余所者の大きなお世話なのだろうと思えてきます。


ラクタ度の高いヴァンヴやモントルイユの蚤の市と較べると、クリニャンクールのほうは規模も小さく、店は整然と並び、通りも十分なスペースが取られていて、売られているのも衣料や装飾品、土産の類で、こちらが期待していた蚤の市のイメージに合わない感じがしました。どうもここは既に観光名所になっているらしく、エッフェル塔の置物や「PARIS」とプリントされたTシャツなど、やたらと観光土産が売られているし、実際、明らかに観光客と思われる人も多く、通りを歩いていると英語・スペイン語・中国語・ロシア語・日本語が聞こえてきます。予想だにしないダラクタたちに不意打ちされることを期待する向きには、ここはあまりお勧めできません。


モントルイユの蚤の市の横には郊外型大規模スーパー、カルフールがあります。このカルフール、何となく来たことがある気がします。それに、クリニャンクールの光景はまったく覚えがないことからすると、十数年前に訪れたのはクリニャンクールではなくモントルイユだったかもしれません。当時は今のように屋根や陳列台などなく、直接地面にビニールを敷き、商品を拡げていたように記憶しているのですが、記憶し間違いでしょうか。それとも、蚤の市もかなり変わったのでしょうか。


それにしても、蚤の市とカルフールが並び立つ光景というのは、まるでそれ自体が消費生活についての展示であるかのようです。


大型スーパーには、現代の平均的な核家族の平均的な消費の欲望を満たすさまざまな商品が置かれています。週末になると、ここに家族が車で乗りつけ、買い物をした後でハンバーガーやピザを食べるという典型的な消費生活が展開されます。新しさという価値によって動く資本主義の要請に従って、スーパーは絶えず新しい商品を置いて消費者を惹きつけようとする。


それにたいして蚤の市は、そういった新しさを失ったものが並んでいる場所です。この蚤の市に並んでいるものの多く――全てではありませんが――は、資本主義の商品規格から言えば失格で、カルフールにはまず置かれることはないでしょう。


もちろん古さが高い価値を持つ場合もあります。年代物の品や骨董品は、高値で売買されます。それは、それらの商品の“古さ”が“新しさ”よりも価値を持つからです。新しい商品の価値は、次にもっと新しい商品が出てくるまでの相対的なものでしかない。どんな新しい商品も、すぐに古くなって価値を失うことは避けられない。だからこそ、不変性や稀少性を感じさせてくれる古いもののほうが高い価値を持つことが起こりえるし、そういったものは、専門店という、それ専用の場所に置かれることになる。


蚤の市に置かれているのは、古いがゆえに価値を持つ年代物や骨董品ではなく、古いうえに手垢がついて汚れていたり、傷が入っていたり、煤けていたりして、価値が磨耗している物です。しかも蚤の市では何がどこに売られているか誰もわからないし、車のミラーだけの店やぼろきれでつくった人形の店が雑然と並び、消費者の生活の必要や欲望を最大限効率的に満たすために作り上げられたスーパーの商品陳列の秩序というものは、ここにはかけらもない。同じ陳列台の上に衣類と調理器具が並べて置かれていることなど、ざらにあります。


蚤の市に置かれたこれらの物も、かつては新しい商品としてスーパーや専門店、デパートなどに置かれ、新品のオーラを放って人々を惹き付けたこともあったでしょう。しかし今となっては、消費社会のシステムから完全に外れ、廃棄物すれすれです。しかし蚤の市は、けっしてゴミ捨て場、すなわち商品の墓場ではありません。そこは、使い古され、価値をすり減らした物たちが、新たな使い手の到来を待ち続ける場所なのです。ある物は永遠に買い手がつかないし、ある物は突然買い手が現れる。ある人は、かつて人々が抱いたであろう豊かさへの憧れや夢の名残りとして買い、またある人は単にスーパーよりも安いからという即物的な理由で買う。こうして蚤の市の物たちは、かつて自分たちを作り出し、そして使い捨てた消費社会にしぶとく抵抗しつつ、失われた価値を取り戻してくれる新たな買い手を待ち続けています。


モントルイユとクリニャンクールとを廻り、結局買ったのはコーヒーメーカー(5ユーロ)一つ。あまりに安いので(スーパーでは最低15ユーロくらいする)、それこそガラクタかもしれないことを覚悟で買いましたが、今のところ、着実に役割を果たしてくれています。