平田オリザ`Chants d’adieu`を観る

Yumat2007-06-09

昨日は20区にあるパリ東劇場で平田オリザの`Chants d'adieu`を観ました。数日前には平田氏自身が来てどこかでティーチ=インをしたらしいですが、それは別の用事があって行けませんでした。


`Chants d'adieu`とは「別れの歌」という意味で、物語は、フランス人マリーが日本で亡くなり、日本人の夫たけおの家で行われた通夜の晩、一堂に会した日本人とフランス人とのやり取りを軸に進行します。`Chants`(歌)が複数形になっていることが示唆するように、近親者の死を悲しむ気持ちは普遍的だとしても、死者に別れを告げる仕方、つまり葬式は文化によって大きく違います。その違いゆえに、マリーの通夜で出会った人々のコミュニケーションはしばしば妙な方向に脱線していきます。一言で言えば、異文化間コミュニケーションにつきもののすれ違いから生じる滑稽さを葬式という状況で表現した喜劇です。


劇場に入ると開演前から既に線香の匂いが場内に漂っています。300人弱ほど入るかと思われる客席の8割程度は埋まっていたでしょうか。舞台は8畳のタタミが9セットの広さで、天井に旧式の蛍光灯、中央にちゃぶ台と座布団、右端にたんすがあり、舞台全体に漆色に塗られた柱や梁が組み立てられていて、旧家がイメージされています。ちゃぶ台の上や周囲に飲みかけのビール瓶やオレンジジュースの瓶が雑然と置かれ、すでにある程度の時間が経過していることが暗示されています。


登場人物はたけおと妹のゆきこ、そしてマリーの両親ジュリアンとイリス、弟のミシェル、友人アニー、前夫のフランソワ、葬儀会社の柴田さん。たけおとゆきこはフランス語を喋り、日本に数年住んでいる日本通のアニーはある程度日本語を喋る。それ以外の登場人物は、それぞれ自国の言葉しか喋らない。日本人同士で喋る時は日本語で喋り、字幕もなかったので、観客のフランス人は舞台の上のジュリアンやイリスと同じように、理解不能な状況に置かれることになり、彼らが異国の地の葬式で感じた不可解さを疑似体験できる仕掛けになっています。


先にも書いたように、この劇では異文化間コミュニケーションから生じるすれ違いが笑いを生んでいます。明日の葬式の席順を前日に決めようとするたけおと柴田さんにたいし、それが理解できないジュリアン。亡きマリーの髪を一部思い出に切り取ろうとして、柴田さんともみ合いにになったフランソワ。死をめぐる文化の違いがすれ違いを生み、笑いを生んでいました。じっさい、客席からも何度も笑いが生じていて、概ね好評を得たといえるでしょう。


しかし個人的にはいくつか疑問を抱かせる点もありました。それは日本人のステレオタイプなイメージについてです。外国人にたいして笑いをとろうとするとき、“自虐ネタ”は比較的笑いがとりやすいものですが、この劇でもステレオタイプを時にはあえて誇張してみせながら活用し、笑いをとっていました。それはあくまで喜劇を成立させるための戦略的利用ですから、ステレオタイプを用いること自体が直ちに悪いとは思いません。けれどもステレオタイプといえども何がしかの妥当性・一般性がないことには、成立しない(もっともらしく感じられない)はずです。そしてこの劇では、いくつかの点で無理が感じられました。


たとえば、何かにつけてたけおとゆきこが`Excusez-moi`(「すみません」)を連発し、ジュリアンとイリスがなぜそんなにすぐに誤るのか、何に対して謝っているのかといぶかり、たけおがひとしきり弁解した後で、思わずまた`Excusez-moi`と言ってしまうという、いささかベタな場面があり、この場面は結構観客には受けていたのですが、そもそもフランス語に堪能でフランス人女性を妻にするような人が、フランス人にたいして趣旨のあいまいな`Excusez-moi`をここまで連発するとは思えません。“何かにつけて「すみません」と言う日本人”というステレオタイプを用いたいのはわからないでもないですが、それをたけおという人物に託すのはやや無理があるように感じました。


それから、これもたけおのことですが、たけおは喪主として式の段取り全般の準備や、関係者(ジュリアンやイリスたち)への対応をつつがなくこなすことに忙しく、あまり悲しそうな様子が感じられません。そのことをイリスも訝り、どうしてたけおは悲しそうではないのか、日本人男性とはああいうものなのか、という疑問を抱く場面があります。これも「日本人男性はあまり感情表出をしない」というステレオタイプを用いるための設定なのですが、そして日本の葬式では喪主が万事を取り計らうので何かとすることが多いというのは確かでしょうが、結婚して数年の妻を亡くしたばかりの人が、まったく悲しみの感情を見せず、それどころかむしろさばさばとした表情で、まるで元気溌剌とした若いサラリーマンがあまり付き合いのなかった親戚の葬式を手伝っているようにしか見えないというのはどうなのだろうかと思わずにいられませんでした。「日本人男性は感情表出をしない」「日本人は何事もきっちりオーガナイズする」というステレオタイプを仮に認めるとしても、このたけおのように妻の葬式の際にさっぱりとした表情をしている人はいないでしょうし、いたとしてもそれが一般的とはどう考えても思えません。悲しみに打ちひしがれつつもそれを抑え、喪主として万事を滞りなくしようとあれやこれやに気を廻してしまうというのが本当ではないかと思います。この作品はあくまで喜劇であり、劇を湿っぽくしないための演出として、悲しそうな表情をしないことにしているのかもしれませんが、たけおのあまりのさばさばとした態度が妻の通夜という状況設定と齟齬を来たしているように感じられました。


このようにいくつか疑問に思うところもあったものの、全体的には楽しめる内容でした。この作品の面白さは、通夜のディテールを巧みに表現した会話の妙もさることながら、やはり異文化間コミュニケーションにつきもののすれ違いというテーマを、通夜という状況を設定して追求したところにあるように思います。結婚式やヴァレンタインデーなど、多くのキリスト教の儀式や習慣を(変容させながら)取り入れてきた日本人が取り入れなかった儀式の一つが葬式です。人々の日常のなかで、ほとんど葬式のときにしか尊重されることのない仏教を「葬式仏教」と揶揄する言葉もありますが、逆に言えば仏教は今なお多くの日本人の死の儀式を司る唯一の宗教なわけです。もちろん伝統的な仏教以外の葬式の形態を選ぶ人や、あるいは劇中での会話にもあったように、葬式をしない人も増えています。葬式は多様化しているけれども、キリスト教式の葬式をしようとする人はいない。つまり死は、これほどグローバル化が進行し、多様な文化が行き交うようになった時代において、なお文化毎の特殊性を色濃く残している領域の一つなのです。ここに目をつけたのは慧眼と言うべきでしょう。


もっとも、あるテレビ報道によると、近年アメリカの葬儀会社が日本に進出しつつあるそうですから、死の文化が今後どのようになるのか、不透明な部分もあります。葬式が地域共同体で営まれている頃は、葬式費用のような“生臭い”ことは親戚や近所の人々が受け持ち、家族は悲しみにひたり、死者を弔うことに専念できたのですが、都市化された地域ではー以前このブログで取り上げた葬式についての映画でも描かれていたとおりー、家族が事務的な対応もしなければならず、と言っても悲しみを引きずって事務的な対応をてきぱき行うことなどなかなかできることでもなく、結局坊さんや葬儀会社に言われるがままになってしまいがちです。それにたいしてアメリカの葬儀会社は、事前に価格の明示された葬式メニューを提示し、顧客にどのような葬式を望むかを選んでもらうというサービスを売りにしているそうです。自分の葬式は自分で決めるという自己決定の理念と、金銭についての合理主義とが入り混じった、いかにもアメリカ的な発想ですが、その行き着く先は葬式のマクドナルド化かもしれません。果たして今後、この発想は日本に受け入れられるのでしょうか。